その手で 2.イクと体育館
変な女が体育館の二階にやって来た。ちびっこくて、黒い髪を二つの長いおさげにしていて、一重の鋭い瞳が写すものはいつも暗いもので。
友達も、家族も、居場所も、才能もない。そう語る彼女のことを俺は「ナイ」と心の中で呼んでいた。ナイがこの部屋を出入りするようになっても名乗らないのでそう勝手に呼ぶ。気づいたら口から出ていて、結局彼女の名前を知らずに「ナイ」という名前が定着してしまった。俺の名前を教えると、ナイは「イク」と俺のことを呼んだ。ナイは一年で俺は三年なのだが、ナイは「先輩」とは呼ばない。年齢だけの敬意や上下関係を嫌っていたのは俺も同じだったので俺は何も言わなかった。
「イクはなんでここにいるの」
六月の晴れ間、何を見ているのか分からない瞳でナイが呟く。深い湖のように穏やかなのに底が見えない瞳は俺のどこまでを見ているのだろう。
「俺はもう誰にも期待されていない。教師には帰ったと思われ、親にはもうどこかに行ってしまったと思われている。ここはどこでもない、世界の虚構なんだ」
「忘れ去られた場所?」とナイが問う。
「そう、いい名だね」と俺は肯定した。「忘れ去られた場所」
「私ももう忘れてもらえたかな」
緑の球除けネットに腰を下ろしたナイが膝を抱えて顔を埋める。
「忘れられたいよな」
誰かに期待されることはしんどい。裏返しに失望があるから。誰に何を言われても、棘のように刺さる。そのくせナイの言葉は俺の心を撫でるだけで、穏やかにここで過ごせる。ナイの言葉には棘も無かった。
ブラックデビルに火を付けて、浅く口の中だけで吸う。
「イクの煙草は甘いね」
ナイが俺を見て微笑む。一重の大きな瞳が細くなり、唇が柔らかく歪む。
「他の煙草を知ってるのかよ」
揶揄するように笑う。
「叔父さんの煙草はもっと鼻が痛くなるような香りだった」
「今は叔父さんのとこに住んでいるんだっけ」と確認する。
ナイはコクンとうなずいた。この一ヶ月でナイは様々なことを少しずつ俺に話した。震災で親を亡くしたこと。今は叔父の家で叔父夫婦と従兄と暮らしていること。友達が一人もいないこと。
「叔父さんのところは居づらいか?」
またしてもナイはコクンとうなずく。今度は先ほどより少し遅かった。そう錯覚したかもしれないと思う程度の違いだった。
「私は居候だから。家族じゃない。期待もされない代わりに存在もしない。食卓を囲んでいても誰も私のことを見ないし、話もしない。私は観客となって家族劇場を見ているだけ。この世にはこういう家族がいて、お前は家族を失ったんだ、と叔父さんたちに見せられるの。そして可哀想、可哀想、って近所のおばさんたちに言われるの。『震災孤児だから仲良くしてあげなさい』って言われて仲良くしてくれる人なんているわけない。最初は同情で一緒に居ても、私が求めてないと知るとみんな離れていく。いつかみんなぺしゃんこに潰れてだあだあ汁を流して死んでしまうんだって思うとおかしくてたまらない」
ナイは息を漏らすように笑った。俺はナイの肩を抱き寄せる。そうすることが正解なのかは分からないが、ナイに足りないのは体温なような気がする。いつも死体のような冷たさを彼女は纏っている。小さくて華奢な肩を撫でていると、ナイは俺の胸に頭を擦りつけた。
「私は死にたいのかな。消えたいのかな。もう消えているのかな」
「ナイはここに居るだろ。死にたいとか言うな」
でも、とナイは続ける。
――イクは私のこと殺してくれる。
咄嗟に出た「殺す」の言葉。この神域を、最後の居場所を犯される恐怖。でもナイは受け入れて、俺も受け入れた。肺がタールでどろどろになってニコチンで脳が溶けて俺は死ぬのだろうか。
「ナイ、煙草、吸ってみるか?」
死に近づく悦楽行為。ナイは中立的な態度で考えあぐねていた。悪いことをすることにナイはまだ慣れていない。たまにナイはこうやって考えて考えて、生命活動を辞めてしまったかのように止まるのだ。
「怖いなら、二人で吸おう」
俺は短くなったブラックデビルを吸い込むと、ナイの小さな唇に煙を流し込んだ。ナイの瞳が大きく見開かれる。甘い煙を共有して、俺たちは落ちぶれていく。
ナイが小さく咳き込んで、俺たちは離れる。
「おいしい」
ナイのつぶやきに俺は満足した。