その手で 6.イクと体育館
期末テストが迫った七月。テストなんて赤点さえ取らなきゃなんでもいい、と今日も俺たちは「忘れ去られた場所」で怠惰な日々を送っていた。
「イク、元素記号分かる?」
ナイが熱せられた床に足を投げ出して問う。手には化学1のテキストが握られていた。ナイの眉間には深い皺が刻まれ、うーん、うーん、と唸ってる。厨房の大型冷蔵庫みたいな音だ。
「覚え方知らないのか」
ナイは見慣れない元素表とにらめっこしながらうなずいた。
「水兵リーベ―僕の船、って言うだろ」
「初めて聞いた」
どういう意味だろう、とナイが思考モードに入る。最近買った二つ折りの携帯電話のマナーモードみたいに静かに、でもときたま震えるように動作していた。
「水素、ヘリウム、リチウム、ベリリウム、ぼ……?」
「ホウ素」
「なんでBでホウ素なの?」
「それは知らん」
なんだあ、とナイが寝転がる。分からないものは分からなくていい、とナイなら諦めかねない。ナイはそういう奴だと分かってきた。でも俺もよく分からないので答えようがなかった。
「ナイってなぜ1+1=2になるのか延々考えていられそうだな」
ナイは両眉をあげてまたごろごろと転がり始めた。いかん、本当に考え始めた。
「いや、今考えなくていいから」
ナイの動きが止まる。起き上がって、俺の肩に頭を乗せた。
「分からないことが多すぎて生きるのが怖い」
「えらく哲学的ですね、ナイは」
「だってそうでしょ。数式も、言葉の由来も私には分からないし、なんで私だけ生き残ったのかとか誰にも分からない。分からないものに包まれて私は生きている」
ナイがあまりにも弱々しく言うものだから、俺はナイの唇にしっとりと触れた。
「考えるなとは言わない。でも考えすぎて生きるのを辞めるくらいならその口きけなくするぞ」
今度はナイから俺の唇に触れた。
「イクに殺されるまでは私は生きるよ」
見つめ合うと、ナイの瞳はどこまでも深く、吸い込まれて消えてしまいそうになる。この女は一体何者だ、と俺もたまに考える。いきなり現れて、私を殺してと言い、俺に懐いた。俺もナイのように考えすぎて止まってしまうようになるのだろうか。
「イク、おなかすいた」
「へ?」
「今日、半日授業でお昼食べてない」
そういえばそうだな、と思い返す。ナイも何かを食べるのか、と思ったが、いつもここで菓子パンとかラップに包まれたおにぎりとか食べていたことを思い出す。ナイも人の子だとどこかで安心した。
「じゃあ、ラーメン食うか?」
このときのナイのきょとんとした表情を一言で表すなら、可愛い、だろう。