その手で 9.ナイと美術館
どこへも行きたくないし、ここにも居たくない。しかし夏休みの課題というものもあって、それをやる気も特にない。やっぱり私には何もないんだな、と私は怠惰に蝉の鳴き声の中でうたた寝していた。
それでも喉の渇きという生理的な欲望にはあらがえなくて、私は人の気配がないことを確認してから台所に降りる。コップにぬるい水道水を注いでひと思いに飲んだ。冷たくなくても幾分マシになった。
ふと、ダイニングテーブルを見る。叔父さんが読んだまま開かれた新聞が放置されていた。普段読みもしないのにその新聞に目をやった。
〈※※市美術館ゴヤ展 七月二十日~九月二日〉
ゴヤ、というものは分からなかったけれど、添えられていた陰影のはっきりした絵――怪物のような男に食べられる子供の絵――に私は興味を持った。
美術館まではバスで三十分ほどのところにあった。比較的高校の近く――イクの家の近くだった。
美術館に来るのは中学の課外活動以来だった。胸元に掻いた汗がスッと冷やされる。美術館は美術館の臭いがするな、と漠然と思った。
順路に沿って進むと、新聞に載っていた絵に出会った。ゴヤというのは絵の作者の名前で、タイトルは《我が子を食らうサトゥルヌス》であった。間近で見ると引き裂かれる子供が無残で、サトゥルヌスと名付けられた男の表情は狂気に満ちて美しかった。
漠然とした恐怖と狂気を前に、私は立ち尽くした。無残な死が、そこにある。美しいまでの死が。
「松岡、さん?」
後ろから男性の声がした。振り返ると、ストレートジーンズに半袖の開襟シャツ姿のどこかで見たことあるような人がいた。黒いウエーブの髪。細いフレームの丸めがね。
「水嶋先生?」
「よかった、松岡さんで合ってた」
水嶋先生は私の隣に並ぶと「この絵、どう思う?」と話した。水嶋先生はイクより背が低いな、と思った。
「よく分からないけれど、いいと思う」
「いい、か」と水嶋先生は微笑む。
「松岡さんは美術好きなの?」
好きとか嫌いとかはなくて、ただ新聞に載っていたこの絵に惹かれたから来ただけ、と話すと、先生は困ったように笑った。私は、何を言えばよかったのだろう。
「この絵は、耳が聞こえなくなったゴヤが家の壁に描いたものだ。彼の絶望の塊とも言えるかもしれない」
「絶望」と私は繰り返した。
「我が子を食べることは絶望なの?」
たぶんね、と水嶋先生は歯を見せた。白い骨がむき出しになったような色だった。
「松岡さん、これから用事ある?」
首を振ると、水嶋先生は「オムライスがおいしい喫茶店があるんだ」と私の手を取った。
水嶋先生は私の手を離さなかった。年齢的には親子でも兄妹でもないだろう。これくらいの年齢の人と関わるのは学校以外に――もっともいかなる年齢の人と関わる場面は他に無かった。
喫茶店は美術館のある小高い丘から降りてすぐのところにあった。ガラス張りの開放的な店内には女性客であふれていた。女の子は怖い。人は、怖い。
「松岡さん?」
水嶋先生が凍り付く私の顔をのぞき込む。眼鏡の奥の先生の短い睫毛が揺れていた。
「大丈夫、です」
「そう、気分悪いならすぐに言ってね」
先生は厚いガラスに取り付けられた丸い金属の取っ手を引いた。
冷気が、足下を駆け抜ける。汗が鋭く冷やされていくのを感じた。熱に焼かれるのも体温を失うのも死に近い。食べられるよりはいいかもしれない。
イクなら「何考えてる?」って言うかもしれない。私は基本死について考えている。私の周りの人はみんな死んで、私もきっと死に近い。死から遠い人などいないように。そう言うとイクはいつもニキビのある頬を上げるのだ。
「松岡さん、いつもよりいい顔してるね」
いい顔、ってなんだろう。私は私の顔を触ってみた。そのとき初めて私の口角が上がっていることに気づいた。イクのことを考えると、私は「いい顔」になるらしい。
奥のボックス席に対峙して座ると、水嶋先生は私に食べられないものを確認してデミグラスオムライスを二つ注文した。
届くまでの間、私は水嶋先生のことを考えてみた。パーマのかかった髪。丸めがね。薄くて穏やかな唇。ひげの薄いあご。男の人。三十代。国語の先生。私の担任の先生。
「今度は、なんでもない顔になったね」
なんでもない顔、と言われてまた私の顔を触ってみる。私の唇はやわらかく結ばれていた。「とても君は面白いよ」
「面白い」と私は繰り返した。
「そう、面白い。君を見ているとね」
いい意味でね、と水嶋先生は付け足した。
意味を理解するのに苦労して、私は中立的な態度でいることにした。嬉しくもなければ悲しくもない。目の前で微笑む水嶋先生の意図が分からなかった。たぶん悪いものではないのだろうと判断して、先に届いたアイスティーのストローを咥えた。控えめな茶葉の香りがした。
オムライスは先生の言うとおり美味しかったけれど、それ以上の感想はなかった。一方的に先生がゴヤについて語るのを私は聞いていた。ゴヤから始まり西洋美術についての話を先生は続けるので私は適当に相づちを打った。時折私の目を見て先生は顔に花を咲かせた。水嶋先生が美術好きであるということは分かった。
「松岡さん、二学期から授業出れそうかな?」
セットのケーキを食べ終わる頃、水嶋先生は眉毛をハの字にして問いかけた。私は学校に居たいとは積極的には思えなかった。でも、他に行く場所もない。勉強してこの先、目指すものがあるわけでもない。私には、何も、ない、のだ。でも。
「学校には、行きます」
イクに会うために。
「うん、おいでよ。みんな松岡さんのこと待ってるから」
「みんな、って誰ですか」
先生は目を見開いて、それから、ごめんね、と謝った。
「そうだね、みんなって言われても分からないよね。そんな曖昧な人物に期待するのは子供じみていたよ。悪かった。でもね、松岡さんのことを受け入れて、待っていてくれる人がいる可能性は捨てないで欲しい。今からでも友達はできるよ。教室に居辛かったらいつでも国語準備室においで。もっと私のことを頼って欲しい」
先生は私の頬を撫でた。暖かくて、生きている人の手だと思った。
「じゃあ、先生は私のこと殺してくれる?」
先生は険しい顔になって、手をゆっくり下ろした。
「私は、松岡さんに生きていて欲しい。一緒に生きる方法を探そう。そんなに思い詰めていたんだね……」
水嶋先生は携帯電話の番号を喫茶店の紙ナプキンにボールペンで書いて私にくれた。相談したいことがあればいつでも頼りなさい、と。
でも先生は私を殺さない。私は殺して欲しいのだ。
先生はコインパーキングから車で家まで送ってくれた。この車が電柱に突っ込んで死ぬ妄想を家に着くまで幾度も繰り返した。あの恐ろしい絵のように、死に導いてくれる怪物が私の命を食べてくれるのを願った。