その手で 17.ナイと渡り廊下
二学期は水曜の三限が音楽の授業だと分かった。そうだと話すとイクが「渡り廊下で会おう」と提案してくれた。昼休みと帰りしかイクに会えないのはイクの欠乏だ。
二限の授業は退屈で、いつも秒針が規則的に回るのを眺めて待っていた。誰が秒を決め、誰が分を決め、誰が時間を決めたのかは分からない。世の中はよく分からない。でも分からないものに縛られながら生きている。そしてよく分からないものに期待している。あと三分二十七秒でイクに会える。こっそりと音楽の教科書を膝の上に用意した。
チャイムが鳴って挨拶もそこそこに、私は席から立ち上がる。私にしては俊敏な動きだったと思う。窓際の席から廊下に飛び出す。早歩きで進む。
こんなにイクを求めている私は、イクに与えられる生を求めている。
渡り廊下の外は雨が柔らかく降り注いでいた。秋の訪れを告げる雨。蝉の死骸を溶かす雨。夏という季節は死に、秋という季節が生まれる。私はどの季節で死ぬだろう。
南校舎から渡った先、本校舎の角にイクはいた。
「よう、ナイ」
イクは私の頭を優しく叩いた。渡り廊下の先の本校舎には死角となる小さなスペースがある。階段上の小さなスペース。こんなところにも「忘れ去られた場所」はある。日の当たらない、私にとって居心地の良いスペースだった。
「ねえイク、イクはどの季節に死ぬの?」
彼は吹き出すように笑って続けた。
「なんで俺が死ぬ前提なんだよ」
「いつかは死ぬでしょ?」
イクは手を私の耳に移し、形を確かめるように揉んだ。
「……俺は夏がいいな。いっぺんに燃え尽きたい。その方が楽だろ」
そっか、と私は微笑む。
「私は、春と夏の間の、何でもない季節がいい。夏のように暑く、春のように花が咲いて、梅雨もやってきていない。何もナイ季節がいい」
「ナイもこだわりがあるんだな」
それまでイクと、と話してイクの胸に顔を埋めてイクの匂いと体温を身体いっぱいに貯める。
「ナイは誕生日いつ?」
私はしばらく考えて、思い出した。
「今日」
イクがはぁ? と語尾を上げる。
「そういうのは前もって言えよ」
「なんで?」
「その、プレゼントとかいるだろ」
プレゼント? と考えて、私は合点がいく。
「誕生日って祝うもの?」
「祝うものだよ」
そっか、と私は無感情に呟いた。誰が決めたのか分からない秒、分、時間、日。そして年。時間は一定の速度で進むけれど、人間はそれを螺旋のようにぐるぐる巻いて、一周すると祝う。なんでなのかは分からないけれど、それが人間の風習だ。
「なんで祝うんだろう」
そうだな、とイクは真面目に考える。
しばらく頬を掻きながら悩んだ後、イクは「生まれてきてくれてありがとう」と言った。
私が初めて、言われた言葉だった。生まれてきてしまったことを呪い続けた私には受け止めて飲み込むには時間がかかりそうな言葉だった。
「帰り、ケーキでも食べるか?」
私は頷いて、私の顔に触れてみた。頬が少し上がり、唇が柔らかく結ばれていた。これは、いい顔だ。
「ラーメンも食べたい」
随分ナイも欲張りになったな、とイクは嬉しそうだった。
「じゃあ今日はナイの行きたいところ全部行こう」
始業のチャイムが鳴る。
「じゃあまた、授業後に。駐輪所で」
私は頷くとイクの香りをもう一度胸一杯に吸い込んで音楽室まで早足で向かった。
誕生日って、こんなに素敵なものだったんだ。