その手で 24.ミズと橋栗家
他人の家に行くのは、イクの家の次に二度目だった。モナの家は高校から歩いて二十分くらいの一軒家だった。庭は綺麗に整えられて落葉樹が綺麗に紅葉していた。色とりどりに咲く花の名前は分からないが、神経質なほどに規則正しく整えられている。
「こっちだよ、ミズ」
ミルクベージュのタイル貼りの玄関はどこか異国のもののように感じられた。モナは外国のお嬢様なのだろうか。
家に入ると顔中のそばかすをファンデーションで極力薄くしている女性に出迎えられた。背が高くて、髪の色は薄くて。たぶん、
「お母さん、ただいま」
「モナちゃんおかえりなさい」
そして私に視線をやり、
「あら、可愛らしいお友達ね」
私はどう返事をするのが正解なのか分からなくて小さく頭を下げた。うながされるまま靴を脱いで履いたことのないようなふかふかのスリッパをつっかける。今は秋なのに、春の花畑のような匂いがする家だと思った。
「あとでケーキ持って行くからね」
モナは「ありがとう」とだけ答えた。汗ばんだ手で私の手を強く握りながら。
モナの部屋は広かった。私が使っているものよりも大きなベッドに勉強机に天井まで届く本棚、テレビにソファーにローテーブル。アップライトピアノまであった。入り口のドア以外のもう一つのドアの先はクローゼットになっているらしい。
でもこんなに広いのに、モナは窮屈そうに私にくっついて離れなかった。腕を組んだままソファーに座り、首の筋肉を緊張させていた。何か言おうとして言わない。口をぱくぱくと動かしてはやめる。自分の家なのになんで緊張しているのだろう。そういえば、私には自分の家がない。自分の家でも緊張するのが普通なのだろうか。やっぱり分からないことだらけだ。
「ミ、ミズ、あのね」
モナの声が裏返る。
「お母さんに何か聞かれても私が教室に行っていないことは言わないで」
分かった、とだけ返事をした。普通は教室に行くものだ。
また『普通』か。普通ってなんなのだろう。
モナが私を抱きしめた。雨に濡れた花のような柔らかい匂いがした。イクじゃない人の鼓動を初めて聞いた。私にも鼓動があるのだろうか。
コツコツとノックされる。跳び上がるようにモナが私から離れた。
「ごめんなさいね、ケーキがレアチーズケーキしかなかったのだけれど、お友達は食べられるかしら?」
レアチーズケーキというものを食べたことがないので考えあぐねていると、すかさずモナが「大丈夫だよ。ね?」と間に入る。私はしょうがないので控えめにうつむいた。
「よかったわ。お紅茶はフォートナム・アンド・メイソンのロイヤルブレンドよ。たまたまいただいたところなの」
白磁のティーポットから神経質な二つのティーカップに注がれる。国語準備室の香りによく似ていた。それくらいしか私には分からない。
「それでその、お友達さんはお名前は?」
マスカラがたっぷり塗られた長い睫毛の奥で淡い瞳が私を見詰めている。
「松岡深澄です」
「ミズさん。どうやって書くのかしら」
「深く澄む、で深澄です」
「まあ、素敵なお名前ね。きっと素敵なご両親が大切に育ててくださったのでしょう」
ご両親。私には、もういない。もし居たとしたら、とも考えたことがなかった。
モナのお母さんは「こんなことを聞くのはあれだけれど」と前置きして尋ねた。
「ミズさんは成績の方はどうなのかしら? 国公立大学志望?」
考えたこともなかった。高校を出た後の事なんて。――イクがいない高校なんて。
「お母さん!」
モナが叫んだ。
「い、いきなりそんなこと聞いたらミズが困っちゃうよ」
「でも、モナちゃんには『いいお友達』を選んで欲しくて」
「ミ、ミズはいい友達だよ。も、もう出て行って」
わなわな震えるモナの肩を、私はただ見詰めていた。
モナのお母さんはしょうがなく部屋を立ち去った。私たちに凍てつくような視線を送ってから。