その手で 36.ナイとイクと忘れ去られた場所
2022.02.25 09:00
トタ、トタ、トタ。誰もいない体育館を靴下で歩く。
しんとして。薄暗くて、何も無い。
天井を見上げれば骨組みの間でバレーボールが首を吊っている。
死んでしまいたいほど愚かでもなく、生きながらえたいほど希望もない。
歩きなれた体育館。キルティングのドアを押すと、むっと太陽のような埃の臭いと、微かな甘い煙の匂いがする。
「待ってたぞ」と男は言う。艶のない金髪。ニキビのある頬。青いトレーナーの上に羽織った学ラン。手元には、開封された煙草の箱と炭酸ジュースの缶。
「そんなびしょ濡れで。全く、野良の黒猫じゃあるまいし」
男は立ち上がって女を抱きしめる。長い二つのおさげ。耳の上の猫のピン。セーラー服に小柄な身体。男からする甘い匂い。
「私、一人じゃ死ねなかった」
「そうか」
「だから、だからお願い」
――その手で、私を殺してください。
男は女を球避けネットの上に引き倒した。
頸動脈に手を当てる。カサカサとする、大きな男の手。
ゆっくりと閉じられた女の目からひとしずくこぼれ落ちる。
男は手に力を込める。
ふっと、男は笑う。
「俺がナイを殺すのはもっと先だ」
「イク? なんで?」
イクはナイを抱きしめた。
「ナイ、俺はお前のこと、愛してる」
「私は、私はイクのこと愛してる?」
なんで疑問系なんだよ、とイクは笑った。
「ちょっとモナと仲良くしたからって拗ねやがって。可愛すぎんだろ」
俺のこと信じろよ、とイクはナイのことを抱きしめた。
「ねえイク、私、たぶんイクのこと愛しているよ」
――その手で、生かされたいくらいに。