絶望者
絶望するとはどういうことであろうか?何かあるものに対して絶望しているのか。それとも単に絶望しているだけなのか。絶望する人がいる一方で絶望しない人もいる。もっと正確にいうならば、絶望できる人と絶望できない人がいる。絶望とは深淵に至るものであるから、深く潜り込む素質の人のほうが絶望に近づくであろう。この深く潜るという素質は、深く感じたり深く感動したり深く味わったりするような切れ味の鋭い刃物に似ている。絶望できる人とあえていうのは、鈍器ではなく鋭利な刃物を胸に宿している人におこる稀な現象であるからである。強烈な感受性なしに強烈な絶望に陥ることはない。絶望とはどこか一部が絶望するのではない。自己を取り巻く世界全体が絶望するのである。絶望世界にすっかり馴染んでしまっており、尚その事実に気づいていないのが真の絶望状態である。「ああ!いま自分は絶望している」と言えるなら真に絶望しているとは言えない。自己を俯瞰できるということは、世界全体が絶望していることと矛盾するからである。自己を俯瞰する視点も絶望状態にまで引き込まれていなくてはならない。(真の絶望では、まだそれが絶望であることが分からないままである。絶望という名を与えた途端に絶望から逃れ、もはや絶望ではなくなる)。また絶望とは安心をいっさい喪失することでもある。安心はなんらかの土台に支えられているが、その土台すらないということである。ところで、私は少なくとも本来的に絶望していない。まだまだ甘い。というのは、いまここで言語に絶望を憑依させるという変換は、そもそも言語という土台をもっているのだし、言語を拠り所として安心を得てしまっているからだ。絶望とは従って絶望する人を救済することは不可能になるだろう。絶望世界にある人にとっては、あらゆるもの全部が絶望の対象であり、絶望的にしか物事は見ることができない。外部の好意ある助言があったとしてもそれすら絶望色に染めてしまう。救済が不可能であるからこそ絶望が成り立つ。絶望するとは深淵を体験できるという観点からすれば、外観の悲惨さに反して幸福ということができる。質的量的により多く体験できるのが絶望者である。数字で表現してみよう。ここに不幸なニュースがあると仮定する。このときの反応強度を数で表してみる。
「…−♾…−1000…−100…−10…−9.−8.−7.−6.−5.−4.−3.−2.−1.0.1.2.3…」。
普通の人の反応強度をさしあたり、−1〜−3あたりとしよう。絶望者の反応強度はどうなるか?恐らく−♾に近似するであろう。不幸に同調する能力が高いのであるからこうなる。同様なニュースが連続するならば絶望者の反応強度は−♾×−♾×…となるに違いない。ニュースの解説者がいちいち不幸に付き合っていては番組にならない。この態度はよく考えれば残酷である。ニュースの中の不幸を軽くあしらいスポーツ番組になって笑うのだから。さっきの不幸なニュースの没入度は浅くなくてはならなかったはずである。絶望者はそうはいかない!果たしてどちらが正常なのだろうか?
変わり身の早い浅さがたとえ健全な態度だとしても。
「罪と罰」(ドストエフスキー)を絶望者が読むとしばらく動けなくなる。しかし「罪と罰」は絶望者にこそ読まれるように書かれてある。どん底を知り尽くしているドストエフスキーと絶望者である読者が、このテキストを通じ互いに同調することによって「罪と罰」は、はじめて作品「罪と罰」として完成する。完成は慰安となって絶望者を救済するだろう。