佐渡の金山に朝鮮人強制連行の実態や証拠はない
「佐渡島の金山」について、岸田政権と外務省はユネスコ世界遺産へのことしの登録推薦を見送る方向で調整に入ったと20日、主要紙が伝えた。ユネスコの「世界の記憶」(世界記憶遺産)に、中国が「南京事件」の中国側資料を、韓国が慰安婦資料の登録を目指した際、日本は関係国が合意しない限り申請しないという制度改革を主導した経緯があり、外務省は「寝た子を醒ます」と最初から腰が引けていた。
これに対して自民党の保守系有志でつくる「保守団結の会」は18日、「歴史戦の様相を示しつつある」として、国内外に情報を発信すべきなどした「ユネスコへの推薦を求める決議」をまとめ。高市政調会長も「日本の名誉に関わる問題」と述べ、政府に推薦するよう強く求めた。また安倍晋三元総理は「論戦を避けるかたちで登録を申請しないのは間違っている。しっかりと事実に基づいて反論していくことが最も大事だ」と訴えた。今度もまた、韓国の不当な言いがかりに屈服して、推薦を見送ることになれば、佐渡の金山に関して「日本には後ろめたいことがある」という間違った印象を世界に対して与えることにもなりかねない。
日本側の研究論文として比較的まとまっていると言われる広瀬貞三「佐渡鉱山と朝鮮人労働者(1939~1945)」(新潟国際情報大学情報文化学部紀要1989)に基づいて、佐渡島の金山と朝鮮半島出身労働者の関係を述べてみる。
前もって、この論文の問題点を指摘しておくと、「本稿では従来使用されてきた歴史的用語『強制連行』は使用せず、『戦時動員』を使用する」といいながら、実際には「連行」とか「連れて来られた」という言葉が散見し、また『朝鮮人強制連行の歴史』というねつ造本を書き、「強制連行」という言葉を最初に使用した朴慶植(朝鮮大学校教員)の『解放後在日朝鮮人運動史』(三一書房1989)から引用するなど、1965年の日韓基本条約に反対するために「強制連行」という歴史をねつ造した北朝鮮・朝鮮総連の主張に引っ張られていると見られる既述があることは残念である。(以下< >内は引用)
広瀬は、<1937年7月の慶溝橋事件により日中戦争が全面化すると、佐渡鉱業所は金増産・鋼増産のために朝鮮人男性を労働者として大量に動員した。1939年7月日本政府は朝鮮人男性を日本の鉱山、炭鉱、土木の三分野に限定し、労働者として動員すること決定した。1939年度の朝鮮からの労働力導入は8万5000名に決定した。当初は各企業による「募集」の形式を取っていたが、1942年7月から「労務協会斡旋」に変更し、1944年9月から「徴用」によった。これらは日本政府と朝鮮総督府が密接に連携し、国策として遂行された。>とする。
ここにいう「労務協会斡旋」について、特に説明はなく、広瀬は、日本による戦時動員を「官斡旋」とは呼ばないと主張するので、三菱鉱業のもとにあった雇用労働者を管理する労使団体「協和会」による「斡旋」のことと思われるが、そうだとすると企業の直接「募集」と何も変わりがないことになる。広瀬が、佐渡鉱山で働いた朝鮮人労働者の数を具体的に提示しているのは、別表のとおり1940年2月から1942年3月まで6回に渉って計1005人を「募集」で集めたという数字のみで、1942年7月以降の「労務協会斡旋」や1944年9月以降の「徴用」については、具体的な数字は提示できていない。
<佐渡鉱山への連行(ママ)は、1942年3月以降も続いた。この問の回数や人数は不明だが、1944年7月新たに数十名が動員されている。これは「労務協会斡旋」によるものであろう。7月13日に一行の入山式が佐渡鉱業所の「協和会館」で行われた。>
<朝鮮人の動員は1945年7月が最後で、労働者だけで「回を重ねて総数千 二百名人」だったという。これに家族まで加えれば、少なくとも1300名近い朝鮮人が佐渡鉱山で暮らしたと推定される。>
ここでいう「1945年7月が最後」というのは疑問で、終戦間際には日本周辺の制海権を失い、朝鮮半島との間では船の行き来は止まっていたので、「徴用」も1945年4月以降は行われてはいなかった。ところで、ここでは朝鮮人労働者の「家族」まで佐渡に来たことになっているが、それについては、以下のような背景があった。
<佐渡鉱業所への朝鮮人動員は「募集」形式から始まり、その期限は本来3年、あるいは2年であった。このため、過酷な労働条件であっても、その期限が終了すれば帰国する「契約」だった。しかし、佐渡鉱業所では当初から朝鮮人の「定住化」を計画していた。1941年4月現在、佐渡鉱業所の朝鮮人労働者は約600名だが、家族を伴っているのは50名に過ぎず、大部分は寮で生活していた。佐渡鉱業所では「これ等の半島労務者をして半永久的に留まらしめる方針の下にその家族を順次呼び寄せることとなり、今月四十家族約百名、来月八十家族約二百名を迎へるべく準備中」で、さらに朝鮮人学童のために「専門の教師を特置する」計画だった。>
朝鮮人労働者が本当に「強制連行」の被害者だったとすれば、「強制連行」された夫に従って異国に渡る妻などいるはずがない。さらにその子どもの教育のために、学校の教師まで用意するというのである。なんと優遇され、行き届いた配慮のもとの「強制連行」「強制労働」であることか。
さらに会社側は、当初から労働者を佐渡に「定住化」させる計画だったとあるが、その定住化に向けた措置も、以下のとおり、あの手この手の懐柔・奨励策がとられた。
<「募集」の期間は当初3年だったため、佐渡鉱業所では1942年1月から「募集」期限が終了する朝鮮人が順次現れ始めた。佐渡鉱業所の方針は、有無を言わさず「兎モ角全員継続就労ノ事」とすることであった。「爾後各個ノ朝鮮現地家情柄(家の事情)、病弱者等帰鮮若ハー時帰鮮不得巳(やむをえざ)ル者ニ対シテハ朝鮮現地官辺並二地許警察署ト打合ノ上適時送還ノ事」とした。佐渡鉱業所では「継続就労手続修了者ニハ対シテハ適当時期ニ各個ニ個人表彰状ト相当ノ奨励金ヲ授与」するごとで、朝鮮人の就労「継続」を計った。これらの事実は「募集」形式でありながら、実態は強制労働(ママ)であったことをよく示している。>
「実態は強制労働」だとは聞いて呆れる。故郷の家の事情や病気などやむを得ない事情を抱えた人は、現地の警察に連絡して送還させる手続きをとり、契約期間修了者には表彰状や奨励金を与えて就労継続を説得したのである。このどこに強制性があるというのか?
広瀬の論文のなかで、朝鮮人労働者が「強制連行」や「強制労働」ではなかったことを示す証拠は他にもいくつかある。以下は、佐渡鉱業所が朝鮮の現地に入り最初に労働者の「募集」を開始した1939年当時の状況である。
<佐渡鉱業所が1939年に何回「募集」を行い、合計で何名の朝鮮人が佐渡に渡ったかは不明である。労務課員によれば、1939年2月には「一村落二○人の募集割当てに約四○人の応募が殺到したほどであった」という。当時農村は大きな危機に直面していた。1939年7月、8月に朝鮮南部は数十年ぶりといわれる大旱害に見舞われた。罹災者の中には、「一時流言輩語自暴自棄的言動の続出となり、飼料難に因る畜牛の放売、農務閑散に伴ふ雇人の解雇、生活難に依る婦女子の売買、学童の休退学、職を求めて他郷へ流出する者、乞丐(きっかい=こじき)浮浪者に転落する者」が急増した。こうした農村疲弊の中、生活の活路を見出すため、佐渡鉱業所の「募集」に応じざるを得なかった朝鮮人は多かったと思われる。>
何十年ぶりの干害被害で朝鮮南部の農村は疲弊し、家畜を手放し、小作を解雇され、貧困から娘を売り、子どもを休学させ、乞食や浮浪者に転落するものが続出し、渡りに船で佐渡の鉱山の労働者募集に応じたというのであり、ここに無理やり連行され働かされるという要素はどこにもない。
<朝鮮から連れて来られた朝鮮人は大多数が農民である。彼らを日本人に絶対服従する鉱山労働者にするために、事前に十分な「訓練」が必要だった。つまり、日本語教育と日本人化教育を徹底し、その次に保安意識を持たせることを目的にした。>
「日本人に絶対服従」するためではなく、職場での業務指示を聞き取り、自らの身を守るための安全対策を身につけるためにも、日本語の学習と安全訓練は絶対に必要だった。そして朝鮮人労働者の待遇は以下のとおり日本人と違いはなかった。
<朝鮮人の賃金は、「坑内夫二付テハ内地人労務者同様年齢経験等考慮シ業務ノ種類及難易二依リ予メ査定セル請負単価ニ依リ其ノ稼高二応ジ支給、極ク少数ノ坑外夫二付テハ定額給ヲ支給ス」とある。支払い方法について、「賃金は月額ヲ以テ締切リ採鉱関係は翌月十日、其他は翌月六日二支払フ(内地人同様)」とある。また、これとは別に「稼動奨励」のため、各種の「精勤賞与」が設けられた。>
ただし、給与からは食費(当時1日50銭)や寝具代(一組50銭)が引かれたほか、無料支給と思っていた地下足袋などの作業必需品がすべて本人持ちだったので、実際の手取りは少なかったという。
<佐渡鉱業所では朝鮮人に現金を所持させないため、賃金を故郷(家族・行政機関)に送金させたり、強制貯金をおこなった。これはインフレを抑制すると共に、朝鮮人の逃亡を阻止することに狙いがあったと思われる。>
1940年2月から1942年3月まで「募集」に応じた労働者1005人のうち、表2のとおり死亡は10人、「公傷送還」「私傷送還」という負傷者は36人に上ったことが分かる。そして以下のとおり、労働者は会社が保険料を負担して全員が団体生命保険に加入していた。
<朝鮮人労働中の死傷者に対し、佐渡鉱業所は「勤続三ヶ月以上二及ビタル時ハ団体生命保 険二加入セシメ各人在籍中ノ保険料ハー切会社負担シ万一不幸アリタル場合保険金三百円ヲ贈呈ス、災害二対スル扶助、退職ノ場合ノ給与関係等ニツキテハ内鮮区別ナシ」としている。>
待遇については「内鮮区別ナシ」で、日本人と区別はなかった。賃金も故郷に送金させたり、強制預金させたりしたとはいえ、しっかりと支払われており、どこにも「無賃労働」「奴隷労働」だったという証拠はない。
さて、長々と佐渡の金山における朝鮮人労働者の状況を論文から引用してきたが、広瀬論文には、「連行」とか「連れて来られた」等の主観的な記述はあるものの、そこに示された具体的な状況に強制連行という実態はどこにもないのは明らかだ。
そもそも「強制連行」「強制労働」という表現については、維新の党の馬場伸幸議員が去年4月16日に質問主意書を提出し、政府の統一見解が出されている。 政府は答弁書で「朝鮮半島から内地に移入した人々の移入の経緯は様々であり、これらの人々について、「強制連行された」又は「連行された」と一括りに表現することは、適切ではないと考えている」とし、「旧国家総動員法第四条の規定に基づく国民徴用令により徴用された朝鮮半島からの労働者の移入については、これらの法令により実施されたものであることが明確になるよう、「強制連行」ではなく「徴用」を用いることが適切であると考えている」とした。
また朝鮮半島出身労働者が「強制労働」させられたという言説については、「強制労働ニ関スル条約」(昭和七年)第二条において、「強制労働」とは、「処罰されるという脅威の下に強要されたり、自らの任意で申し出たのではない労務をいう」と規定されているが、「緊急の場合すなわち戦争の場合においては強要された労務には含まれない」とされていることから、「募集」、「官斡旋」及び「徴用」による労務については、いずれも同条約上の「強制労働」には該当しないものと考えており、これらを「強制労働」と表現することは、適切ではないと考えている、と答弁している。
<衆議院 質問名「「強制連行」「強制労働」という表現に関する質問主意書」の経過情報>
つまり、佐渡の金山で働いたという朝鮮人労働者たちは、会社の募集に自らの意思で応じた人たちの存在は1005人という具体的な数字で把握できるが、「徴用」で来たという人は具体的には掌握されていない。そして、たとえ「徴用」であったとしても、国家総動員法に基づく戦時の国民徴用令による徴用なので、いずれにしても「強制労働」に当たらないことは明らかなのである。 岸田政権と外務省は、佐渡の金山の登録見送りを決める前に、以上のような論理で、強制連行でも強制労働でもなかったことを韓国側に突きつけなければならないだろう。