大和郡山城
1. 城のデータ
[所在地] 奈良県大和郡山市城内町
[築城年] 1580年
[築城者] 筒井順慶
[遺 構] 天守台、本丸石垣、堀
[別 称] なし
[形 状] 平城
[登城年] 2005年6月5日、2016年1月2日
(※トップ写真:追手向櫓)
2. 城の歴史
1580年、織田信長が大和国を攻略した後に、大和国守護・筒井順慶がそれまでの居城としていた筒井城から大和郡山城へ移った。この時に廃城になっていた多聞城の石が移されるなど、郡山城は天守を備えた本格的な近世城郭となる。
筒井氏の後、豊臣秀吉の弟・羽柴秀長が100万石で城主となり、城下町全体の整備が進んだ。1591年には五奉行の一人である増田長盛が入り、広大な外堀がつくられた。1600年以降は徳川譜代の大名が治めた。1724年には柳沢吉里が甲府城から15万石で入り、明治まで柳沢氏が続く事になる。
3. 城の見どころ
大和郡山城は奈良盆地の中心、西京丘陵の南端付近に立地する城郭である。古来から東大寺、興福寺など寺社勢力が他の国に比べて強い大和国内にあって、大和郡山城は数少ない近世城郭のうちの一つである。城主であった筒井氏自身も興福寺の宗徒から戦国大名化したとされている。
戦国時代に大和一国を支配した筒井順慶、そして天下人・豊臣秀吉の弟である秀長が城主となった城だけあって、城郭の規模はかなり大きい。また、増田長盛時代に築かれた外堀(現在は一部しか見られないが)の総延長はなんと約5kmにも及び、大和一国を支配する拠点とするのに相応しい城郭であった。
(下写真:内堀と石垣)
郡山城の特徴は石仏・石塔などが転用された石垣だろう。もともと大和盆地は石材が乏しかったようで、羽柴秀長の城郭拡張時には、奈良の家ごとに石材の供出が命じられている。実際に天守台の石垣下部をよくよく見てみると、かなりの数の転用石が見られる。石仏が石垣としてはめ込まれた「さかさ地蔵」なるもの、平城京の羅生門の礎石と伝えられるものがあった。
(下写真:天守台)
現在の大和郡山城で現存する遺構は、石垣と堀のみであるが、郡山城の大手にあたる追手門が昭和58年に復元されている。かなり大型の櫓門であり、正門に相応しい規模である。また柱を外側に見せる意匠など、大和国に相応しく古風な印象を受ける。
(下写真:追手門)
追手門の横には追手向櫓が昭和61年に、それに続く多聞櫓と追手東隅櫓が昭和59年に復元されており、追手門付近では当時の郡山城の雄姿を一部想像することができる。
(下写真:追手東隅櫓)
-再登城後の追記-
2016年1月、約10年ぶりに大和郡山城を訪れることにした。前回学生時代に登城した時の季節は6月だったが、今回は冬場ということで、ずいぶん城の様子が違って見えた。
この時、天守台付近の整備事業が行わており、周辺は立入禁止となっていた。石垣の変形、破損が進み、崩壊の危険性があるため、保存整備事業を進めているそうだ。平成28年に整備事業が完了するとの事で、完成が待たれる。
4. 城のポイント
①大和国支配の拠点として築かれた城 ⇒筒井順慶、羽柴秀長らが城主となった
②石仏などが転用された石垣 ⇒天守台石垣に数多く見られる
③復元された追手門、追手向櫓、追手東隅櫓