ウィーン体制5-ブルシェンシャフト弾圧
2022.01.24 09:36
この事件が起こったアイゼナハは、ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国にある。小国ヴァイマールは、1809年にアイデナハと統一し、息子がロシア皇帝の娘と結婚した縁で、ウィーン会議後さらに領地を拡大し、大公国となった、そしてその首相が70歳のゲーテだった、まあ文化領域に権限があっただけだが。
ゲーテの理想は賢人政治のようなもので、ナポレオンには理想を見ており、民衆の自由主義は過激化を懸念していた。ブルシェンシャフトにも共感して、集会も許可をしていたが、あくまで学問上のことで、政治上のことは警戒していた。しかし焚書はセンセーショナルに騒がれた。
大公国も、ゲーテも、これは一部の過激派であり、若気の至りにすぎない、と事態の鎮静化に努めた。ところが事態はそうならない。1818年1月、ヴァイマールの人気劇作家コッツェブーが、当地の状況をロシア皇帝に送っていた、と進歩派新聞が叩いた。いわばロシアのスパイである。
コッツェブーは翌19年3月23日ブルシェンシャフト過激派によって暗殺された。この事件を受け、同年9月20日、ドイツ連邦主要10カ国が集まり、ブルシェンシャフトを弾圧するカールスバート決議が宣言された。しかし、ウィーン体制に自由化を要求する機運は各国で広がってゆく。