#4 音痴はうたう
かつてわたしの音痴は、ぺらぺらのベールに覆われて危うくも巧みに存在していた。
それは両親でさえ気づかない。
なんなら小学校の音楽会でソロパートを任せる先生がいたことも。
音楽の時間はいつバレるかとひやひやした。
慎重にまわりを見て、歌えるふうに背伸びして。
それはまるでつま先立ちでよろよろしながら歌っているかのようで、ほんとはずっと居心地悪かった。
けれどよほど巧く立ち回れていたのだろうか。
ベールは剥がれることなく大人になり、しかしそれはある時あっけなく露見することとなる。
その朝、何気なく鼻歌でついて出たのは『やぎさんゆうびん』の歌。
♪しろやぎさんからおてがみついた
くろやぎさんたらよまずにたべた
の、いわずと知れた誰もが歌えるあの童謡。
♪し~かたがないのでお~てがみかーいた
さっきのてがみのごようじなあに
ここで、バレた。
完全に気を抜いて、さらに結構な音量で歌ったのがいけなかった。
「さっきのてがみの」が行ってはいけない領域に飛んでしまい。
すると自然、「ごようじなあに」の着地はあらぬ方向でドシン、と尻餅をついた。
振り返ると、困ったようにしずかに笑っている顔がある。
未来の夫である。
ほお。
なかなか好ましい顔で笑う、とくすぐられた。
えーと。
たまたまね、おかしくなっちゃった。
と、再び歌う。
見事なる尻餅、ドシン。
おかしいなぁ。
今日はちょーし悪いわぁ。
悪いんだけど、一応歌ってみてくれる?
「いいよ」と笑いながら、正確な音程で華麗なる着地をビシッときめられた。
そこから「さっきのてがみの」の「き」の飛び方と、「ごようじ」の「う」の場所、「なあに」の「な」の置き方のレクチャーが始まった。
「これが決まればうまくいくと思うよ」
と、的確でていねいな指導のもと朝から童謡を繰り返し学ぶ大人、24才。
内心では楽しんでいるというあざとさが、インスタントコーヒーの香りにまぎれてゆく。
あれから20年。
夫のDNAか、高校生の息子はK-POPもなんのその。
AメロBメロサビからラップまで、アカペラで涼しげにサラッと歌う。
夕飯を作るわたしの横にきて「ふふん♪」という軽さで、あらゆる音を自由自在に乗りこなしている。
さぞかし気持ちよかろう。
それって、合ってるの?
悔しくて一応聞いてみると、「まあね」という顔をする。
加えてしゃくにさわるのは、彼がハモり魔なところだ。
音楽番組を見ながらは勿論、CMソングも、ドラマのBGMでさえ、耳に入る音を気に入るとスマホをいじりながら無意識にハモっている。
それって、ハモれてるの?
一応聞くと、また「まあね」という顔で頷く。
ぴりりとしゃくにはさわるが、自信満々のその顔をなかなか好ましいと思っている自分もいる。
そう、わたしだって。
下手は下手なりに歌や音楽が好きなのだ。
だから歌がうまい人をうらやましくも好ましく思い、楽器ができたり、音楽に誠実な人を尊敬している。
音楽は一日中欠かせないし、気に入った歌は口ずさみたくもなる。
そして時々、試しに『やぎさんゆうびん』も歌ってみる。
すると時を経てもなお、安定のとっちらかり方で尻餅をついてしまうのだ。
恐るべし、童謡。
そんな時は咄嗟に、近くにいるあの顔を探す。
見つけられれば、ほお、と眺め。
そちらも変わりませんねぇ、とあの朝のコーヒーをにやりと思い出す。
このワンセットを実は最初から気に入っているということは、内緒の話だ。
言えばあまのじゃくな夫は簡単にはあの顔を見せてくれなくなるだろう。
ならば、と素知らぬ顔して喉をならし。
仁王立ちでわたしは歌う。
ベールを剥いだ世界はクリアで清々しく、せいせいしたいい気分だ。
text by haru photo by sakura