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奥の細道・永平寺

2022.11.19 06:03

http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/okuno37.htm 【奥の細道(永平寺・福井 元禄2年8月12?~14日)】より

雪の永平寺山門(写真提供:牛久市森田武さん)

 五十丁山に入て*、永平寺を礼す*。道元禅師*の御寺也。邦機千里を避て*、かゝる山陰に跡をのこし給ふも、貴きゆへ有とかや。

 福井は三里計なれば、夕飯したゝめて出るに、たそかれの路たどたどし。爰に等栽*と云古き隠士有。いづれの年にか、江戸に来りて予を尋。 遙十とせ余り也。いかに老さらぼひて有にや、将死けるにやと人に尋侍れば、いまだ存命して、そこそこと教ゆ*。市中ひそかに引入て*、あやしの小家に、夕貌・へちまのはえかゝりて*、鶏頭・はゝ木ヾに戸ぼそをかくす*。さては、此うちにこそと門を扣ば*、侘しげなる女の出て、「いづくよりわたり給ふ道心の御坊にや*。あるじは此あたり何がしと云ものゝ 方に行ぬ。もし用あらば尋給へ」といふ。かれが妻なるべしとしらる。むかし物がたりにこそ、かゝる風情は侍れと*、やがて尋あひて、その家に二夜とまりて、名月はつるがのみなとにとたび立。等栽も共に送らんと、裾おかしうからげて、路の枝折とうかれ立*。

等哉を訪ねる芭蕉と不在を告げる等哉の妻

与謝蕪村筆 逸翁美術館所蔵

等裁の旧居跡(写真提供:牛久市森田武さん)

五十丁山に入て:<50ちょうやまにいりて>と読む。1丁または1町は、109.1メートルだから50丁は5.5km。これは山門を入ってから本堂までの距離を言っている。永平寺がいかに大きいかを表現したもの。

道元禅師:<どうげんぜんじ>と読む。道元(1200-1253)。 鎌倉初期の禅僧。日本曹洞宗の開祖。京都の人。号は希玄(きげん)。諡号(しごう)承陽大師。久我通親の子。比叡山で天台宗を、建仁寺で禅を学んだ。1223年入宋。帰国後、京都深草に興聖寺を開く。1244年越前に移り、大仏寺(のちの永平寺)を開創。修証一如・只管打坐(しかんたざ)の純一の禅風で知られる。著「正法眼蔵」「永平清規」など。(『大字林』)

永平寺を礼す:<えいへいじをらいす>と読む。永平寺は、1244年(寛元2年)7月、道元によって開かれた曹洞宗総本山。

邦機(畿 )千里を避けて:<ほうきせんりをさけて>と読む。京都から千里以上も離れての意。

等栽:<とうさい>と読む。洞哉が正しい。Who'sWho参照 。

そこそこと教ゆ:こういうところに住んでいますよと教えられた.。

引入れて:引き下がる、隠れ忍ぶこと。

夕貌・へちまの延えかえりて:<ゆうがお・へちまのはえかえりて>と読む。夕貌は夕顔、へちまは糸瓜。

鶏頭・はゝきぎに戸ぼそをかくす:<けいとう・ははきぎにとぼそをかくす>と読む。 ケイトウは、鶏冠状の赤や黄色の花穂をつけるヒユ科の植物。ハハキギは帚木と書き、ホウキ草の文学的別名。伸び放題のケイトウやホウキ草が門扉を隠していること。

扣ば:<たたけば>と読む.

いづくよりわたり給ふ道心の御坊にや:何処から来た坊さんでしょう?の意。

昔物がたりにこそ、かゝる風情は侍れと:『源氏物語』 「夕顔の巻」などに出てくる場面によく似ている。

路の枝折とうかれ立:<みちのしおり・・>と読む。「枝折」は、後から来る人に道を間違えないように枝を折って道標とした。北枝が道標となって案内する、というのである。

全文翻訳

寺領の入り口から五キロ半もある山内を通って、永平寺を拝観した。ここは道元禅師開基の寺。俗塵にまみえ(れ)ることをさけて、禅師はこのような山陰に道場を遺したのだが、貴い理由が有ってのことだったという。

福井の町はここから十二キロばかりなので、夕食をとってから出かけたのだが、黄昏時のこととて道がよく分からない。

この町に等栽という古い隠者がいるはずだ。いつだったか、彼は江戸に来て私を訪ねたことがあった。もう十年も前のことだ。さぞや老いさらばえていることであろう。はたまた死んでいるかもしれない、などと思いながら、人に尋ねると、今も存命で、何処其処に住んでいると教えてくれた。市中に、ひっそりと隠れ忍んだように、夕顔・へちまが生い繁り、鶏頭・箒木が入り口を隠したみすぼらしい小家があった。さては、ここが等栽の家に違いないと門をたたくと、わびし気な女が出てきて、「何処から来た仏道修行のお坊さまやら。家人はどこそこの何某さまの処に行っていて今は留守じゃ。もし用あらばそちらへ行きなされ」とそっけない。昔の何かの物語にもこんな情景があったなどと思いながら、やがて彼を尋ね当てる。

 等栽の家に二日泊まって、名月は敦賀の港で見ようと、旅立った。等栽も街道の枝折をつとめようと、着物の裾をひょうきんにからげて、浮かれながら旅立った。

https://4travel.jp/travelogue/10730990 【奥の細道を訪ねて第15回34永平寺その1永平寺までの景観・永平寺門前・正門参道・傘松(さんしょう)閣】より

旅行記グループ 奥の細道を訪ねて最終回(第16回)その2結びの地・大垣散策(目次)

丸岡で1泊した芭蕉は、翌朝、昔江戸品川の天竜寺の住職で、当時は松岡天竜寺の住職であった旧知の”大夢和尚”に会う目的で、越前の国・松岡に向けて出発する。(芭蕉は丸岡天竜寺と記載)

しかし此処からの芭蕉の足跡は、曾良の日記の裏付けがない為、不明な部分が多いとされ、芭蕉が永平寺を訪れたかどうかも確証が無いらしい。

迷ったが、これまでも参考にさせて頂いている、「おくのほそ道の旅」(萩原恭男 杉田美登共著 岩波ジュニア新書)に則って、松岡到着日の中に永平寺を参詣した芭蕉を追って旅行記を続けます。

理由は2つ。

1:”大夢和尚”の経歴は”昔江戸品川の天竜寺の住職であった”事以外はどこにも記録は無いが、”品川の天竜寺”と永平寺はかなり緊密な関連があったらしく、現に品川天竜寺の秦慧芳について得度した、秦 慧昭禅師が永平寺第68世貫主に就いている。    

従って”大夢和尚”も永平寺と強い関係があったと思われ、”大夢和尚”は当然芭蕉に永平寺参詣を強く勧めたと考えられる。

2:芭蕉は奥の細道に”五十丁山に入りて永平寺を礼す”記しており、その距離は約5500m。

「おくのほそ道の旅」によれば、”松岡天竜寺から永平寺までは二里余、約8000m余。

芭蕉は地元の永平寺までの地理に詳しい人から聞いて、五十丁と記したはずで、その人は大夢和尚しか考えられず、大夢和尚が五十丁と云ったとすれば、それは松岡天竜寺からの距離でなく、永平寺により近いある地点からの距離と思われる。

「おくのほそ道の旅」によると、芭蕉が永平寺へ向かった道は、九頭竜川に沿って勝山通りを北上し、法寺岡で永平寺川を越え、東古市から南下すると、永平寺通りに交差する。

そのまま南東の進む道が、市野々を過ぎると永平寺の参道に達する。

 この交差点辺りから永平寺の本堂までが、約5000m(約五十丁)で、全くの私見だが昔はこの道が永平寺に向かう”山道”だったのではなかろうか。

芭蕉は丸岡を南東に向かって進み、下久米田の手前を右折、鳴鹿を経て九頭竜川を渡り松岡に入る。

九頭竜川に沿って永平寺に向かう勝山街道を越えると程なく松岡天竜寺があり、芭蕉は松岡天竜寺で大夢和尚と旧交を温め、一休みした後(多分)永平寺参詣に出かけたと思われる。

「おくのほそ道の旅」は大夢和尚が道案内をしたでろうとある。

我々のバスも丸岡を発って松岡に向かい、九頭竜川を越えた辺りで昼食後、松岡天竜寺を訪れるが、松岡天竜寺の旅行記は、永平寺参詣を終えて、芭蕉と北枝との別れの場面で纏めて記載します。

永平寺は寛元元年(1243)、時の領主波多野義重が堂宇を創建し、道元禅師を招いて寄進した。

当初は大仏寺と称したが、寛元4年(1246)永平寺と改め現在に至る。

永平寺にはこれまでに2回訪れているが、今回のように七堂伽藍を中心にほぼ完全回遊したのは始めてであった。

そのため写真の数も多く、”その1”から”その4まで”4回に分けてアップします。

案内図は永平寺の全てを網羅し、詳細で楽しい”中村Katuminさん”のHPの”禅の里 永平寺へようこそ”から

永平寺境内および周辺図をお借りし、一部追加させて頂きました。

https://plaza.rakuten.co.jp/miharasi/diary/202008260009/ 【松尾芭蕉と禅宗論&山口素堂の儒学と漢詩文】より              

 芭蕉の俳諧を禅と結び付けて論じようとしたのは、芭蕉没後の蕉門十哲中の森川許六と各務支考であるが、後世、これらを前提に芭蕉と禅宗について論じ始めたのは、江戸末期の馬場錦江である。彼は芭蕉の生き方を解釈するために、曹洞宗の開祖道元禅師の著した教義「正方眼蔵」をもって説いたのである。

 さて松尾芭蕉は禅宗に帰依したが、彼は仏頂禅師により臨済禅を受けたのであり曹洞禅では無いと思われる。元来、わが国の禅は奈良時代には伝来しており、平安期には何人もの僧によってもたらされていたが、一つの宗派とは成らずに、天台宗では重要な修行の方法とされていた。末法の世とする平安時代末になると、社会文化に新しい活カを与えるものの中で、中国宋に於いて発達した禅宗が注目される様になった。中国の禅宗は、六世紀にインドより渡来した達磨大師が初祖で、唐の初めころには中国的仏教の形態を成して、しだいに禅宗の教団としての形を整えて、次の宋代に発達を見ることになった。

 日本の禅宗は、本格的樹立を目指したのが大日坊能忍で、初め叡山で天台宗を学んだが満足せず、禅を独学で「悟りの境地」(禅の心)に到った。

 禅宗は「師より弟子へ以心伝心に依って伝えられ、文字を重んぜず『不立文字教外別伝』を旨とする事から、宗派興起には法嗣継承が必要であった。文治五年(1189)能忍は弟子二人を渡宋させ、禅僧に「悟りの境地」の判断を乞うことにした。二人は中国の阿育王山に到り、拙庵徳光禅師に参禅し「能忍の心」を伝えるとこれが認められ、印可の証として、自賛をした頂相(肖像画)と達磨の像を与え、禅の典籍「為山警策」を贈った 

 能忍はこれを受けて出版したが、後に手配中の甥・平景清の早合点から刺殺され、中心を失った弟子達は散り散りになり、宗派とはならずに終わった。

 日本での禅宗の始まりは、備中吉備津の人で叡山学んだ栄西であるが、彼は叡山復興を目的として渡宋し、廬山・天台山等を歴し天台宗関係の典籍を持って仁安三年(1168)帰国、叡山に籠もって密教を究めて葉上流の一派(台密)を開いた。しかし、二回目の文治三年(1187)には天台の虚庵懐敞師のもとに参禅して臨済禅を受け建久二年(1191)帰国すると布教活動を始めたが、既成寺院の勢力との対立も起こり、建久五年(1194)には叡山を中心とする旧勢カの、禅宗停止の訴えが認められ、宣旨が下された。栄西は禅宗擁護の運動を続け、建久九年(1203)に「興禅護国論」.を著して禅宗の立場を論じたが、その後叡山との対立を避けて、禅宗を受け入れている武家方を頼って鎌倉に行き、寿福寺に入った。建仁二年(1202)将軍源頼家が京都に建仁寺を建立するとその住持になり、立場の安定を図るため、建仁寺を叡{末寺として天台・墓言・禅三宗を合わせた道場とすることにしたのである。

 栄西は禅宗が武家の精神的修養のために受け入れられ、源頼家の帰依によりその庇護を受ける事τ、旧勢カからの圧迫を避け得たのである。後で述べるがまだこの頃は臨済宗とは言わず、仏心宗・達磨宗あるいは教等と呼ばれ、臨済の禅と称していた様である。次いで興るのが道元禅師による曹洞宗で、鎌倉時代初期に幕府に対抗する朝延の反幕派の土御門(源)通親を父に、藤原基房の娘を母として、道元は正治二年(1200)に生まれたが三才で父を失い、父の巽母兄通具に育てられて八才の時には母をも失った。十三才のとき出家を志して母方の叔父良観法印を訪ね、天台座主公円のもとで出家したが、翌年には比叡山の天台学に飽き足らず、叡山を出て諾寺を歴訪して三年余りの後、栄西没後の建仁寺に入った。このときの法嗣住持で栄西の高弟明全のもとで禅を学び、入宋を志すようになった。

 貞応二年(1222)夏の初め、師の明全と共に中国明州に到り天童山に入ったが、道元は次いで諾山を巡って『禅は文字知識によらず「行」による人問の完成が根本』と気付いて天童山に戻り、禅の世俗化を戒める曹洞の系統を伝える長翁如浄禅師のもとで修行し、悟りを開いて印可を与えられ法を嗣いだ。

 安貞元年夏(滞在四年・1227)明州を出て帰国すると、坐禅の方法を微細に述べた「普勧坐禅儀」を著して『経論・儀式のみに依らず正しい仏法の実践』をと唱導し布教した。これが「末法思想」に依っていた旧仏教(禅宗等に対し)派の反発を受け、寛喜三年(1231)八月、叡山の圧力を避けて深草に閑居し、「正法眼蔵弁道話」を著して「釈迦以下諾祖は坐禅によって正しい遣を悟った」ことを述べて、『坐禅こそ仏法の正門』と説いたのである。

 嘉禎二年(1236)に正覚禅尼や藤原教家等によって深草に興聖寺の建立がなされ、道元は此処を拠点に禅について宣揚につとめたが、比叡山{衆徒による破壊と圧道から寛元元年(1243)に、都を去って越前の志比庄領主・波多野義重のもとに移った。寺院は義重により翌年から建立が始められた。初号は大仏寺であったが後に永平寺と改められた。(永平寺については諸説有って、真言宗か勅願争を改修した説。元はもっと奥に造られたものと云う)

 越前に移ってからは禅宗宣揚から一転して内省的になり、禅林経営の充実に正しい修道生活の確立、つまり食事の作法、炊事の心得や日常全般は禅と不離の精神である、などの『清規』(永平清規)の作成と門弟養成につとめていた。

 宝治元年(1247)、道元禅師は波多野義重の度々の薦めで鎌倉に行き、教化に勤めて執権北条時頼等に授戒を与えて永平寺に戻った。しかし遺元は建長四年(1252)の秋以降病気勝ちとなって、急ぎ修養を要すと、釈迦入滅時の遺言の教えを講じる「正法眼蔵八大人覚」をまとめ、病気療養を波多野氏のすすめに、建長五年(1253)都に到り入寂した。次は時代が下って黄峯だが、同宗は馨禅と同根である。開祖は江戸時代の承応三年(1654)に明国より渡来した隠元禅師。法を臨済下三十一瞠の孫経{費隠に嗣ぎ、長崎に渡来して盛んに禅遺を唱えた。万治二年(1659)に将軍徳川家綱が帰依して、中国福建省の万福寺号を移して山城の宇治に寺を創建し、禅師を推して開山としたのが黄象爪の名称の所因であり、宗義は臨済と巽ならないが、中国明朝期の念仏禅の影響が入っている。以上禅宗三派を概述したが、馬場錦江の芭蕉論を解析するには、禅宗のうち臨済禅(宗)と曹洞宗の本旨を少しぱかりまとめて述べておく。

 禅宗は前述のとおり六世紀の初め、インドの達磨大師(摩阿迦葉)が中国に伝へ、後に頓悟を旨とする南宋禅と、漸修を重視する北宋禅に分かれ、その内の南宋禅が五家に分かれた。臨済も曹洞も五家の一分派で、禅は禅定の略であり三昧静慮の意味である。禅宗はこの禅定に重点を置くものである。つまり『直指人心見性成仏教外別伝不立文字』を標傍するものである。

○臨済宗

 禅宗、つまり仏心宗の一派で、中国唐朝の世に義玄禅師に起こり、日本へは平安時代末期に栄西によって臨済禅が唱導されたものである。宗名は意外に新しく、明治維新後に開宗祖義玄臨済の名を取って起こった。  臨済禅は「機鋒鋭く『将軍禅』と評された」

 この宗は『直指人心見性成仏』を標傍して立てたもので、他宗ようの所依の教典様のものは無く、経門の判釈的なものもなく『教外別伝不立文字』を本旨とし、八万四千の教綱を透腕し、大小顕密の外に超出して、如来心地の要門を常伝しようとすること、禅とは静慮の義で

『心海の波を静めて真如の名月を映ぜさせ、心性を悟得しよう』

 とする意味である。これに「四禅八定等空夢想」の観に漸入する『如来禅』と、「学問知解を用いず、直下に本心を領悟」する『祖師禅』とあるが、極所は両禅とも不離不二で、優劣はないとされる。

○曹洞宗

 禅宗の一派で承陽大師遣元に起源するもの。所詮の法は「仏々授受師々寡承」つまり、『直に仏心を単伝して八万の聖総を包括す』と云う。このため摩阿迦葉より承陽大師に至るまで、宗門の名称を用いる要はないとされる。

 轡洞宗の名称は、中国六祖慧能が曹給{で法を伝え、その六世の孫・良介洞山で道を弘めたことから「曹姶・洞山」の冠字を合わせて『曹洞』と命名されたもの。

 達磨大師が法語要文に「本来無一物」と言うことは、この宗の義骨とするところとされる。これは『能縁の心鏡に浮かぶ所縁の境に執着する事』と喝破したものと云う。

 高祖承陽大師が「普勧坐禅儀」を著し、太祖円明禅師が「坐禅用心記」を述べて『不立文字・直指人心』の宗致に抵触するかに見えるが、これは実義を悟らせるための方便に過ぎないと、論じられている。

修業方法の解説

○直指人心、直ちにその人の本心を透見して大悟すると。

○教外別伝経養外に釈迦蛮心伝心で、別に深遠の義を伝えた事

○不立文字教典などの文字や理覆頼らない事。

 禅宗は自力修業を原理として、精神の鍛練を重んじている事から、武家社会は武士の気風に合致するところから迎え入れたのである。

正法眼蔵

 正法眼蔵とは、「正しい仏法で物を見る目寝め持つ」の意だが、道元禅師の正法眼蔵は『正しい仏法(教法)の要点を収めたもの』である。禅師が寛喜三年(1231)八月に、叡山の圧カを避けて洛外の深草に閑居し『釈迦以下講祖が坐禅によって正しい道を悟った』ことを述べた「正法限蔵弁道謡」を著して、坐禅こそ仏法の正門と説いて「末法」を否定し、建長四年(1252)の『釈迦入滅の時に遺言した教え』を説く「正法眼蔵八大人覚」まで二十三年間に講述したものを、入寂(五十四才)の建長五年ころに集大成した、全九十五巻におよぶ膨大なものである。この「正法眼蔵」には一つ一つの副題が附してあり、深い哲学的思索が盛られている。

 芭蕉の思索を論ずるのに、単に「正法限蔵」とのみ論じるには、何を根拠にしてか不明とする外に無い。

 馬場錦江の「芭蕉翁桃青伝」から禅に関した部分を抜粋して見る。

芭蕉翁桃青伝抜粋

 偶ト尺・序令等に見へ東都に下向す。遣にて黙宗和尚にあう、雁行メ禅を問う。黙宗は則ち東都原庭の禅室の主なり。宗房小庵をその傍らに結びて、自ら如是庵と・・略(黙宗禅室、即ち今本所原庭の自牛山東盛寺、中葉に芭蕉山桃青寺と号す。是れ如是庵を以ての故えなり)

 時に鹿鴫根本寺開山仏頂禅師(自馬経に曰く・・以下略)播州盤珪禅師と号め龍虎と為す。深川長慶寺に居る。黙宗は宗房に仏頂禅室に参ることを含める。以下略

(小石川上水改修の水吏役)

 四年にして成る。(延宝七年)速やかに功を捨てて、移りて深川六間堀に居り、日々仏頂の庵室に参入し、臨済の禅味をたしなむ、(以下略)

貞享元年の項

 馬上むくげの句あり、或いは曰く、仏頂和尚嘗て俳講を悦ばず目く、倚語怪詞にして益無しと、木槿(むくげ)の句を闇くに及びて曰く、善きかな禅意に合うと。而して眼の前の体姿前の情、後の本意ここに根ざす。

貞享三年の項

 春の日と名づけ(中略)而て「古池」の句を載す。この句復「蛙合」に見ゆ。支考曰く、

 「天和の始め翁武江深川に隠れ、正法眼蔵の意を得て吟ずる所の句也。是れ一道建立の亀鑑(以下略)

錦江が賛して曰く

 正法眼蔵意 池頭千古伝 端的自然妙 風月玄也玄

 (正法限蔵の意味それは池の石堤に永遠に伝える、明白に天地万物は実に巧みであるし、風流とは真に奥深いものである)

 馬場錦江の芭蕉年略は、桃青伝後書きでも触れてあるが、著述当時の資料を駆使して論じた物で、それはそれなりに貴重な物であるが、芭蕉の研究上から見ると漸々偏重と若干の問違いが見られる。此処では別に論じておいたから一々触れない。別書を参照されたい。

 さて『正法眼蔵』は厳格な宗風を裏付ける、難解な仮名交じりの国文である、そこで、『弁道話』の一部を参考に掲出しておく。

『弁道話』

とふて(問て)いはく、この行はいま末代悪世にも修行せぱ証をうべしや。しめしていはく、教家に名相をこと(異)とせるに、なほ大乗実教には、正像末を分くことなし、修すれはみな得道すといふ。いはんやこの単伝の正法には入法出身、おなしく自家の財ちん受用するなり。証の得否は修せんもの、おのつから知らんこと、用水の人の倫象みつからわきまふるごとし。

この項のまとめに些か用いなかった資料を紹介すると、松尾芭蕉は『おくのほそ道』で

 五十町山に入りて永平寺を礼す、道元禅師の御寺なり、邦畿千里を避けて、かかる山かげに跡を残したまふも、貴きゆゑありとかや。

 蓑笠庵梨一の『奥細道菅菰抄』に「貴きゆゑ」について

相伝ふ、はじめ寺地を京師にて賜はらんとありしを、禅師いはく、寺堂を繁華の地に営みては末世に至り、僧徒あるいは塵俗に堕する者あらんかと固く辞して、つひに越前に建立すといふことなり。

 また『丸岡(松岡)天竃寺の長老古き因あれは訪ぬ』とは、曹洞宗永平寺末の清涼山天竜寺のことで、長老は大夢和尚、以前江戸の品川天竃寺の住持で有ったと云う。

 芭蕉がこの吟行の後ち、近江石山寺の奥の『幻住庵』に入ったが、この庵号は中国淅江省抗州府天目山に在った『幻住庵』号に因ったと考えられる。文保二年(1318)に業海本浄や明斉哲ら禅僧六人が中国元に渡航し、天目山幻住庵の中峰明本(普応国師)に参じて印可を受け、嘉暦元年(1326)名僧清拙正澄が北条高時の招請で来日する時、彼ら六人も伴われて帰国している。

 尚、孤雲懐奘が『正法眼蔵随聞記』は道元の高弟で後に永平寺二世を嗣だ。師の道元に従って暦仁元年(1238)ころまでの講話を記述したものであ。懐奘は大日坊能忍の弟子であった。

 道元禅師が越前の永平寺に入ってからは、その活動が一転して内省的になったと記したが、これは臨済系の栄西禅師が叡山派等旧勢力と妥協しつつ幕府や朝廷の保護の下で栄え始めたのとは反対に、中国の天童山で「臨済系大慧派に厳しい批判を加え、禅の世俗化を戒める系統」を学んだ事によるもので、帰国の時の如浄の教戒を実行に移したものと云う。その教戒とは

国に帰て化を布き、広く人天を利せよ。城邑聚楽に住することなかれ、国王大臣に近つくことなかれ。たゞ深山幽谷に居りて一個半個を接得し、吾が宗をして断絶せしむることなかれ。

 人天とは人間界と天井界のこと。

 従って越前の領主出雲守・波多野義重の招請で志比の庄の山地に移り、門弟の養成につとめ、世俗への布教は二義にしたのである。しかし義重のすゝめで鎌倉に行き、北条時頼等に授戒し、化を布いたのは事実であるが時頼の寄進は受けず、後嵯峨上皇より賜る紫衣を固辞したが許されず、生涯これを身に着けなかったのも事実である。

 禅宗論を考えるのに明治維新前の論は、臨済だ曹洞だと分けて論じると、飛んでもない論議に成ってしまう様で、江戸時代の禅宗に対する知識は、一般には混ぜん一体としたもので有ったと考えられる。従って教義についてもあゝだこうだと論じても、仕方の無い議論であると考えた方が正解かも知れない。