数とは何か?
https://minamiyoko3734.amebaownd.com/posts/31912675 【生命のリズムを感じ、宇宙と一体に】
https://www.amorc.jp/blog/202007311753_2676.html 【数とは何か?(Vol.1)~形而上学における数の概念~】 より
この簡単そうに思える問いに即答することができる人は、決して多くはないと思われます。
なぜなら、数には様々な側面があり、数学的、哲学的、形而上学的、宗教学的、神秘学的な側面などから、「1、2、3、4…」という数について説明することができるからです。
・「7」という数字からは、何を思い浮かべますか?
「創世記の天地創造」「一週間」「ラッキーセブン」「素数」「プレアデスの七姉妹」「北斗七星」「オクターブ内の7音」などでしょうか?
・「12」という数字からは、何を思い浮かべますか?
「時計」「黄道十二宮」「十二支」「一年(12か月)」「十二使徒」「正十二面体」「オクターブ内の12音」などでしょうか?
算数や数学を学び、公式などによって客観的に数というものを捉えるようになると、「数」とは、様々な物理的な法則を司る「絶対的なもの」のように思えたりもしますが、上に挙げたように、数学、哲学、思想、宗教、神話、音楽などの様々な側面において、数に様々な意味を与えることができます。
ですから、最初の「数とは何か?」という問いについて、そう簡単に答えることができないばかりか、人類は「数」というものの本質について、「実は何も理解していないのではないのか?」とさえも思えてきます。
では、以上のことを踏まえ、神秘学的、形而上学的な観点から、数というものの本当の姿を見つける旅に出ることにしましょう!
数学のヒーロー、天才少年
■「0」とは?「1」とは? ~「在る」、「無い」~
形而上学的な観点から簡単に説明すると、「0」とは「無い」こと、「1」とは「在る」という概念に置き換えることができます。
そして、この場合の「0」と「1」は、決して物を数えたりする際に使用される、「0」から始まって「1、2、3…」と続く数直線上にある「0」と「1」という通常の概念ではなく、「1」は「全体」を意味し、下記のように直線全体を「1」として閉じた世界として表現することを意味します。
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それでは、この「0」と「1」の概念を「宇宙」という観点から考察してみましょう。
・「宇宙」の始まりは「0」から? 「1」から?
もともと、「0」という概念は数学上の概念でもあり、自然科学的には、「0」ということは「無い」ことであり、もともと「存在さえもしていない(不存在)」ことであり、それについては議論することもできないと言えます。
そうすると、「宇宙」は「0」から始まることは無いと言えるかもしれません。
なぜなら、「何も無い」ということは、「宇宙」の素さえも存在せず、そこからは「何も生まれない」ということを意味するからです。
ただし、数直線上の「0」を中心に正負の数を考えた場合、「0」は「正の数(+)」と「負の数(-)」を隔てる壁のようなものであり、その場合、通常の「0(無い)」という概念とは少し異なり、下記のようにまさに壁のようなイメージになるのではないかと私は考えています。
負の数 0 正の数
潜在意識 0 顕在意識
精神 0 物質
ですから、私は、ビックバン以前の宇宙は、何も無い状態だったのではなく、現在の「宇宙」を構成するすべてのものが超高密度で一点に集まった状態であり、それは「無い(0)」という状態とは異なり、無限大に小さかったとしても、全体が集まった状態で、「在る(1)」という状態だったのではないかと考えています。
ですから、宇宙とは、始まりから現在に至るまで、その大きさは異なったとしても、すべてを含む全体として存在しているのではないかと考えています。
宇宙(イメージ)
■「2」とは何か? ~分割~
では、「1(全体)」を「宇宙」に置き換えた場合、「2」とは何を意味するのでしょうか?
別々の「1(宇宙)」を2つ足して「2」を「1」+「1」であると考えた場合、我々の宇宙のほかにもう一つの「宇宙」が存在すると考えることができます。
同様に「3」では、3つの別々の「宇宙」が存在すると考えることができます。
しかし、少し前で述べたように「1」を全体として考えた場合、「2」とは「1」を分けて、2つに分割(均等でなくても)した状態であると考えることもできます。
これを陰陽思想の太極図で説明すると、円である「全体(1)」を「陰」と「陽」に二分すると考えることができ、太極図は、そのことをとても分かりやすく図式化してくれています。
また、ひとりの人間を「全体(1)」として考えた場合、「陰」と「陽」になぞらえて「心」と「身体」、または、単に体の四肢などに、全体を任意の数に分けることができ、その分けられたものをすべて集めると「全体(1)」になります。
これをギターで例えると、一本の弦が「全体(1)」であり、その弦をどう分割するか、どこを押さえるかによって音の高さが変わりますが、まさにこれが「全体」を「分割」するという概念の基本であり、数学的に考えると、1/2、1/3、2/3、1/4などの分数で表すことができます。
そして、ギターの弦には、当たり前のようで、とても重要なことがあります。
それは、ギターの弦をある高さの音にチューニング(調弦)した場合、その弦の最低音(基音)よりも低い音は出ないということです。
しかし、高い方に限れば、原理的にはどこまでも高い音を出すことができます。
弦の振動を物理的に考えれば、当然で本当に当たり前のことなのですが、私は、それを知ったとき、なぜかすべての未来が開けているような前途洋々な気分になりました。
なぜかって?
それは、高みを目指せばどこまでも行けるような気がしたからです。
そして、この弦の振動については、「倍音」と「素数」が思いもよらない形で絡み合い、思いもよらない世界が展開されますが、これは今後のお楽しみにしておいてください。
では次回は、この「全体」と「分割」について、様々な例を挙げてその実態に迫ってみたいと思います。
https://www.amorc.jp/blog/202008141509_2698.html 【数とは何か?(Vol.2)】より
~形而上学における数の概念~
前回は、「全体(1)」を「分割」するという考え方についてご説明しました。
今回は、さらにそれを掘り下げてみたいと思います。
■分割と周期 ~数が意味を持つとき~
「1、2、3、4…」と無限に続く数直線上の数字は、そのままでは、その数字自体にはあまり意味はありません。
そして、この数字自体も人間が作り出したものなので、単なるラベルであり、物を数えたりする(カウントする)場合には有用ですが、例えば「4」という数字には、通常はラベリングされた数字以上の意味はありません。
では、「数が意味を持つとき」とは、どのようなときでしょうか?
その重要な要素は、「周期」または「一単位」です。
言い方を変えると、時計のように使用する数字を「限る」とも言えます。
アンティークな懐中時計
たとえば、「12」という数字は、それだけでは「12」番目などの意味しかありませんが、「一年(12か月)」という「周期」または「一単位」が与えられたときにはじめて、「12」をはじめ、その約数、倍数などの数が意味を持ち始めます。
■ 一年の分割
一年の「12」か月を一つの周期とすると、「24」という数は2年(2周期)、「6」という数は半年でちょうど一年の「1/2(半期)」を意味し、「4」という数は「3」か月と合わせて四季を意味します。
そして、立春、立秋などをあらわす「二十四節気」というものがありますが、これは一年を「24」分割して、約「15」日ごとに気候などが変わる様をあらわしています。
とても不思議なことに、上記のようにある周期が設定されると、数直線上では単なるラベルとしての意味しか持たなかった「6」や「4」、「24」などの数字は、一年を「全体(1)」として「12分割(12か月)」した瞬間から、「意味のある数」として、まるで生命を宿しているかのように生き生きと躍動し始めます。
同じように、数直線上では「7」番目という意味くらいしか持たない「7」という数字は、創世記に記された「7日(一週間)」という周期が与えられると、「安息日(※1)」として、カレンダー上では毎週訪れる「土曜日」という意味を持ちます。
(※1)安息日の定義は、宗教や時代によっても変わりますが、例として、日曜日から始まるものとして、7番目の土曜日を「安息日」として例示しています。
そして、たとえば、神が6日で天地創造を終えて7日目に休んだことから、「7」という数字を「神(完全)」を象徴する数であると仮定した場合、6日目に人間を作ったことから、「6」という数字は「人間(不完全)」を象徴する数とすることもでき、人間は「6(不完全)」から「7(完全)」へと至る存在として意味づけることもできますが、これは、使用する数字を1~7までに限った場合において、それぞれの数に象徴としての役割を与えることができるということを意味しています。
しかし、もし仮に、天地創造に9日を要したとすれば、どうなるでしょうか?
その場合、安息日は10日目となり、一週間は10日を一単位として考えられ、神を象徴する数字も「10」となります。
その場合、「7」という数字は、先ほどとは打って変わり、途端にそれほど重要な数ではなくなってしまいます。
このように、純粋に数学的な意味からではなくても、ある周期を与えられることによって、単なる記号に過ぎなかった数字たちは、「意味のある数」として、それぞれある特定の意味を持ち始めますが、それらはすべて、「どんな周期の上で語られるか」ということが重要になります。
■なぜ360度?
通常、私たちは円を360度に分割して考えますが、これは古代バビロニアから始まったと考えられています。
「なぜ、10分割や100分割ではないのか?」と一度は疑問に思った方も多いと思います。
実は、円を何分割したとしても「全体(1)」としての円の本質自体は変わりませんが、360という数は様々なパターンで等分することができ、とても扱いやすい数なのです。
それは、言い換えると「約数が多い」とも言えます。
円を360等分すると、1/2、1/3、1/4、1/5、1/6、1/8、1/9、1/10など、多くのパターンで等分することができます。
そして、1から10までの数のうちで、割り切れない数は7だけとなります。
金属製の分度器
金属製の分度器
では、100等分した場合はどうでしょうか?
等分できるのは、1/2、1/4、1/5、1/10などとなり、360で等分した場合に比べて少なく、そして、1から10までの数のうち、整数で割り切れる数は2、4、5、10となり、あまり使い勝手はよくありません。
ですから、太古の昔から人間は、「円(全体)」を様々に分割したいと考え、そして、それに適した「360」という数で円を分割するアイデアを思いついたのではないでしょうか?
■細胞分裂? 細胞分割?
実は、人間などの生命の発生過程の初期においても「分割」するという行為が行われています。
下図は、細胞が「分裂」する過程をあらわしていますが、よく見ると、実は「分裂」というよりも、「全体(1)」が「分割」されているということが分かります。
まさしく、「全体(1)」が1/2、1/4、1/8、1/16などに「分割」されているのです。
ヒトの胚の初期発生
ヒトの胚の初期発生
そして、見方を変えれば、「細胞が分裂を繰り返して増殖」するのではなく、「全体(1)が大きくなりながら分割され続けている」ということもできます。
■弦の分割
では、音で考えてみましょう。
あるギターの弦をどこも押さえずに鳴らし(例:220Hz)、その弦のちょうど半分の場所を押さえて鳴らすとちょうど1オクターブ上の音(440Hz)が出ます。
同じように、その押さえた場所からちょうど半分の場所を押さえて鳴らすと、元の音よりも2オクターブ上の音(880Hz)が出ます。
同一の弦の上で考えると、下表のようになります。
最初の音(開放弦) 1/2の場所 1/4の場所 1/8の場所
220Hz 440Hz 880Hz 1760Hz
基音 1オクターブ上 2オクターブ上 3オクターブ上
弦の長さを1/2にするごとに1オクターブ高くなり、周波数はその2倍になります。
そして、この比率は、どんな音の高さからスタートしても変わりません。
そして、これは、両端を固定した弦を「全体(1)」として、それを「分割」するという行為によって異なる高さの音を出していると言うことができ、最初の音(開放弦)よりも低い音を出すことはできません。
バイオリンと真珠とバラ
さて、駆け足で例を見てきましたが、「全体(1)」として例に挙げたものはすべて、始点と終点がある「閉じた世界(有限)」であることにお気づきでしたでしょうか?
これは、始点と終点がない「開いた世界(無限)」では、周期を設定することができないため、現実的には均等に分割できないということでもあります。
では、次回は、この「閉じた世界(有限)」と「開いた世界(無限)」について考察してみたいと思います。
https://www.amorc.jp/blog/202009111433_2720.html?tc=melma200911&utm_source=haihaimail&utm_medium=email&utm_campaign=emailmagazine&utm_content=mailid-810 【数とは何か?(Vol.3)】~形而上学における数の概念~より
前回は、「全体(1)」を「分割」するという考え方について、様々な例をあげて考察してみました。
今回は、この「全体(1)」を構成する「閉じた世界(有限)」と、それとは別の「開いた世界(無限)」について考察してみたいと思います。
■ 閉じた世界(有限)とは?
身の回りにある「閉じたもの」とはどんなものでしょうか?
簡単に言うと、周りと隔てる壁があったり、たとえば時計などのように、ある一定の周期を持つものであると言うことができます。
人間も物質的には外界と隔てられた閉じた存在であり、さらに細分化すると、細胞なども細胞壁で隔てられた閉じたものとして考えることができます。
さらに、1個のリンゴなども閉じた存在として考えることができます。
他には、原子、分子なども固有の振動数を持ち、一つ一つが閉じた世界であると言うことができます。
■ 開いた世界(無限)とは?
では、「開いたもの」とはどんなものでしょうか?
閉じた世界の反対のものを考えると、それは、隔てるものがなく、一定の周期を持たず、どこまでも果てのないものと考えられます。
しかし、無限に広がる「開いた世界(無限)」は、実際に存在するのでしょうか?
■ ウロボロス(Ouroboros) ~「有限」と「無限」~
では、「閉じた世界(有限)」と「開いた世界(無限)」を考察するために、それぞれ、「有限」と「無限」に置き換えて、神秘学的な観点から考察してみましょう。
下図は「ウロボロス」と呼ばれる、「尾を飲み込む蛇(竜)」の絵です。
古代文明や錬金術、神秘学においても様々な象徴として用いられていますが、その多くは、「死と再生」や「完全性」をあらわす象徴として、そして「永続性」や「無限性」をあらわすものとして用いられています。
下図は、さらに「Α」と「Ω」、「Licht Leben Liebe(光、命、愛)」と書きこまれた興味深い象徴ですが、これは、「ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー」というドイツの哲学者の墓石に刻まれているものです。
さて、ここで勘の鋭い方はお気づきかもしれませんが、このウロボロスの図は、実は、頭と尾がつながった「閉じた世界(有限)」を象徴するものでもあります。
ではなぜ、「閉じた世界(有限)」を象徴するウロボロスが、「永続性」や「無限性」をあらわす象徴となるのでしょうか?
この謎を解き明かす前に、上の図について少しご説明したいと思います。
■ 「Α」と「Ω」が意味するもの
「私はアルファ(Α)であり、オメガ(Ω)である」
これは、新約聖書の「ヨハネの黙示録」の中の有名な一節ですが、一般的には、「私(神)は始まりであり、終わりである」と解釈され、神が「始まり」と「終わり」であることが明確に語られています。
そして、この墓碑には、「始まり」と「終わり」をあらわす「Α」と「Ω」の象徴として「ウロボロス」が描かれていますが、その「ウロボロス」の意味するところは、前述の通り「永続性」や「無限性」ですので、一見矛盾しているようにも思えます。
そして、これに関連しては、もう一つ面白い例があります。
それは皆さんがよく知っている、神社などにある狛犬です。
狛犬をよく見ると、一体は口を開け、もう一体は口を閉じているのがわかります。
これは「阿・吽(あ・うん)」と呼ばれ、サンスクリット語の真言「aum(a(阿)+hum(吽))」を音写したもので、宇宙の「始まり」と「終わり」をあらわしていると言われています。
まさしく、「Α」と「Ω」と同じ意味を持っていますが、実は、これらは同じ源泉を持っているとも言われています。
さて、少し寄り道をしましたが、「有限」であり「無限」をあらわす神秘学的な象徴である「ウロボロス」を、今度は数学的な観点から考えてみましょう。
■ 無限とは、どこにあるのか?
数学的には、無限とは、どこに存在するのでしょうか?
砂浜の砂の数は無限でしょうか?
夜空の星の数は無限でしょうか?
結論から申し上げると、無限ではありません。
これらは、途方もない時間が掛かったとしても数え上げることができ、たとえ膨大な数であっても無限ではありません。
これは、数えられるものに関して言えば、本当の意味での無限というものは存在しないとも言えます。
では、無限とは、どこに存在するのでしょうか?
実は、数直線上の「0」から「1」の間に無限は存在しています。
少し数学的な表現になりますが、この「0」から「1」間には、1/2、1/3、1/4などの整数比で表せる「有理数」が無限に存在し、さらに整数比であらわすことができない√2や√3などの「無理数」が無限に存在しています。
もう少しわかりやすく言うと、「0」から「1」の間は、「無限に分割」することができる、と言うことができます。
たとえば、「0」から「1」の距離が1cmであるとすると、物理的に無限個に分割することは難しいように思いますが、この「0」から「1」を、第一回目でご説明した「全体(1)」として、あるいは、この宇宙全体とすると、これを無限個に分割することは、どこまでもミクロあるいはマクロな世界を考えれば、可能なように思えます。
これを少しまとめると、
● この世界にある数え上げることのできるものは、無限ではない。
● しかし、ある有限な塊は、無限に分割することができる。
となり、さらに簡潔に言うと、「有限」の中に「無限」が存在する、と言い換えることができます。
では、最初の「ウロボロス」の絵を再び見てみましょう。
ウロボロス-自分の尾を噛む蛇
「0(頭)」から「1(尾)」までの「有限」をあらわすシンボルでありながら、その「連続性」によって「永続性」をあらわし、さらに「有限」に対して「無限」がどこにあるのかを、とてもシンボリックにあらわしています。
では、他の例を用いながら、「有限」の中に存在する「無限」について考察してみましょう。
■ 「キャンバス(有限)」の中の「無限」
たとえば、1m×1mのキャンバスの中に絵を描くことを想像してみてください。
Q:このキャンバスのサイズは、言うまでもなく「有限」ですが、このキャンバスに描かれる絵は「有限」でしょうか? 「無限」でしょうか?
A:キャンバスのサイズは「有限」ですが、そこに描かれるはずの絵は「無限」の広がりを持っていると言えます。
Q:1台のピアノから生み出される音楽は「有限」でしょうか? 「無限」でしょうか?
A:ピアノという存在自体は、一つの閉じた「有限」のものですが、そこから生み出される音や音楽は「無限」の広がりを持っていると言えます。
さて、「有限」と「無限」の関係性が、おぼろげながらにも見えてきたでしょうか?
では、これを人間に置き換えるとどうなるでしょうか?
Q:人間は「有限」でしょうか? 「無限」でしょうか?
A:人間は、物質的には一つの閉じた「有限」なものですが、そこから生み出されるもの、その精神が生み出す思考や創造性は「無限」の広がりを持っていると言えます。
いかがでしょうか?
私たちは、「無限」の中に「有限」が含まれているかのように思いがちですが、実はその逆で、どうやら「有限」の中に「無限」が存在し、これは、以下のように「肉体」と「精神」に置き換えることもできそうです。
人間は、物質的な「体」という限界を持ってはいるが、非物質的な「精神」が生み出す創造性には限界はない。
では、次回は、数とその象徴性に迫るために、エジプト学の異端児でもあり、「シンボル主義者」である「シュヴァレ・ド・ルービッチ」の思想などをご紹介したいと思います。
△ △ △
ふたたび本庄です。
実は、本年中に当会から、図形と数についてのある翻訳書を出版しようとしているのですが、その本の著者によれば、図形や数が持つ象徴的な意味は、時代や文化が異なっても、かなり共通性があります。
たとえば、文化が異なっても、正方形は大地や生活、有限、迷いを象徴し、円は、天空や神、無限、悟りを表わします。西洋でも東洋でも、7はおおむねラッキーな数とされます。
さて、近い将来か、はるかに遠い未来のことかは私には分かりませんが、人類が、文明を持つ他の星の生きものに遭遇したとします。
使っている言葉や文法はおそらく大きく異なるでしょうが、通訳によって意思疎通ができたとすると、人類の数学者も、異星人の数学者も、きっと1+1が2であることや、平面に描かれた三角形の内角の和が180度であることには同意することでしょう。
では、数の象徴的意味についてはどうでしょうか。
異星人は、7をラッキーな数と考えるのでしょうか。
無益な想像かもしれませんが、このような疑問は、「普遍」とは何かということに関連しているようにも思えます。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
またお付き合いください。