任天真(てんしんにまかす)
Facebook・近藤裕子さん投稿記事 任天真(てんしんにまかす) 良寛
良寛の生き方をあらわした言葉です。
良寛は「私は出世することなど興味は無い、迷いだの悟りだのどうでもよく、
まして名誉や利益などには関わりが無い。ただ自然の道理に身を任せて生きている。」
と言われたそうです。
良寛のようには行かないまでも、
せめて私たちは私利私欲に振り回されないで人生を楽しみたいものです
https://eyespi.jp/l00239/ 【天真に任す…自然のままに身をまかす】より
天真に任す…この言葉の意味をご存知でしょうか。
天真に任す…とは、「てんしんにまかす」と読みます。
曹洞宗の禅僧であった良寛和尚は、40歳のとき越後国上山の五合庵に入り、20年近く独居を続けました。
良寛和尚は、生涯に多くの漢詩や和歌を残しましたが、「天真に任す」は「生涯懶立身」で知られる詩の中の言葉なのです。
天真に任す…自然のままに身をまかす
良寛和尚ほど、時代を超えて多くの人に愛されてきた禅僧はいないのではないでしょうか。
権威から離れ、世間の評価や体裁も気にせず、自由無碍(じゆうむげ)、無欲恬淡(むよくてんたん)とした生き方に憧れる人も多いようです。
子供たちとよく手まりで遊んだという逸話が残っていますが、禅の道をひたすらに厳しく歩んだ人でもありました。
「天真に任す」とは次の詩にあり、すべてのこだわりを捨て、流れる水のように、空の雲のように、ただ自然の道理に身を任せようということです。
生涯懶立身 騰騰任天真・・・生涯身を立つるこ懶(ものう)く、騰騰(とうとう)天真に任す
囊中三升米 炉辺一束薪・・・囊(ふくろ)には三升の米、炉辺(ろべ)には一束の薪(たきぎ)
誰問迷悟跡 何知名利塵・・・誰か問わん迷悟(めいご)の跡、なんぞ知らん名利(みょうり)の塵(ちり)
私は生涯、身を立て出世することなど面倒で興味もなく、ただ自然の道理に身を任せて生きている…
袋に三升の米と少しの薪があれば、もうそれでよい…
迷いだの悟りだのと私にはもうどうでもよく、まして名誉や利益などつまらないものにはかかわりがない…
いかがでしょうか?
良寛のごとくとは言わないまでも、せめて私利私欲に振りまわされない、型にもはまらない良寛の生き方をこころざしたいものです。
また良寛は、型に拘らない率直な表現を良しとし、多くの歌を残しました。
その一部をご紹介します。
・この宮の木(こ)したに子供等と遊ぶ夕日は暮れずともよし
・風きよし月はさやけしいざともに踊り明かさむ老いのなごりに
・歌もよまむ手毬もつかむ野にもいでむ心ひとつを定めかねつも
https://ameblo.jp/asitatusin/entry-12270016043.html 【禅の言葉「天真に任す(てんしんにまかす)」】 より
ふっと心がかるくなる
「禅の言葉」(石飛博光と鴻風会◎書 永井政之◎監修 永岡書店)
禅の言葉「天真に任す(てんしんにまかす)」
――欲を離れて自然のままに身を任せよう――
曹洞宗の禅僧であった良寛和尚は、四十歳のとき越後国上山(えちごくがみやま)の五合庵に入り二十年近く独居をつづけた。生涯に多くの漢詩や和歌を残したが、これは「生涯懶立身」で知られる詩の中のことば(「良寛詩編」)懶(らい=物憂いこと)
良寛和尚ほど、時代を超えて多くの人に愛されてきた禅僧はいないでしょう。権威から離れ、世間の評価や体裁も気にせず、自由無碍、無欲恬淡とした生き方に憧れる人も多いようです。子供たちとよく手まりで遊んだという逸話が残っていますが、禅の道をひたすらに厳しく歩んだ人でもありました。
「天真に任す」とは次の詩にあり、すべてのこだわりを捨て、流れる水のように、空の雲のように、ただ自然の道理に身を任せようということです。
生涯懶立身 騰騰任天真(生涯身を立つるに懶く、騰騰天真に任す)騰騰=とうとう
嚢中三升米 爐辺一束薪(嚢には三升の米、爐辺には一束の薪)嚢=ふくろ 爐辺=ろべ、いろりばた
誰問迷悟跡 何知名利塵(だれか問わん迷悟の跡、なんぞ知らん名利の塵)迷悟=めい
ご 名利=みょうり
大意はこんな感じです――私は生涯、身を立て出世することなど面倒で興味もなく、ただ自然の道理に身を任せて生きている。袋に三升の米と少しの薪があればもうそれでよい。迷いだの悟りだのと私にはもうどうでもよく、まして名誉や利益などつまらないものにはかかわらない――。良寛のごとくとは言わないまでも、せめて私利私欲に振りまわされない生き方をこころざしたいものです。
http://www.yakumo-institute.com/article/15184276.html 【『良寛Ⅱ』】より
この世界に生きることが心底イヤになっちゃったことのある方なら感じられるかもしれない。「生涯身を立つるに懶(ものう)く 騰騰(とうとう)天真に任(まか)す」という良寛の気持ちが。
今、八雲に来ている人たちは、(現在、または、かつて)そういう方々が多いように思う。
「名誉心や利益心、自負や嫉妬やエゴイズムの跳梁(ちょうりょう)している社会」
「そういう『世の中』(=神経症的な世界)であくせくすること」が、心の底からイヤになってしまった。それが「懶」し。
そして流石、良寛はその「懶し」に沈んだままになってはいなかった。そこを根底から突き破っていく。それが「騰々任天真」。
ただ「任す」のではない。
「『騰々任天真』の『任』『まかす』は、その本来においては自分がこちら側にいて、あちら側の天真に任すではない。任せきって分別なく騰々としていることである。或いは自分が天真になりきって、天真を現成(げんじょう)している風情(ふぜい)である。」
「天真が天真を転じているということになろう」唐木順三氏の指摘に賛意を表したい。
ここまで行って初めて「おまかせする」ということの真意が明らかになるのだ。
この世界に生きることに必定の「懶」さを根底から突き破るには、「任天真」の体験に行く着くしかないのである。
花は無心にして蝶を招き、蝶は無心にして花を尋(たず)ぬ。
花開く時、蝶来(きた)り、蝶来る時、花開く。
吾(われ)もまた人を知らず、人もまた吾を知らず。
知らずして帝(天帝)の則(のり)に従う。