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俳句美への選択

2022.11.19 10:02

https://ocsfamilylinkservice.ocs.co.jp/detail/b_0100000000000031880490 【俳句美への選択 美の標準は各個の感情に存す】より

立川淳一/著

出版社からのコメント

同人誌に長年所属し、俳句を作るかたわら正岡子規について研究してきた著者は、日頃俳句について考えたことを文章にし、提示することを思い立つ。俳句の総論から始まり、季語や仮名遣いについて、俳句用語のこと、注意点など。正岡子規の「美の標準は各個の感情に存す」という俳論に立ち返り、現代の俳句の抱える諸問題を深く探っている。また、その中で実作や鑑賞の際のポイントやヒントがわかりやすく述べられている。結社の指導者の書く、型にはまった指南書にはない、自分なりの俳句の取り組み方の手がかりになる一冊。

https://moon.ap.teacup.com/tajima/1753.html?rev=1 【「俳句における「美」はどこにあるのか ~相対性俳句論(断片)」  俳句】

俳句が読み手を面白がらせる何か(たとえば、それを「美」と呼んでも良いかも知れない)があるとすれば、それは俳句のどこにあるのか。

通常、それは次のとおり考えられている(…ような気がする)

1.意味

俳句は言葉でできている。その言葉には意味があり、言葉のつながりには文脈がある。それらが、総合として「何かについて」語っていること。その「何か」を知ること。これは、知識や経験と結びつき、究極的には「あるある」や「格言」のようなものになっていく。

2.イメージ

言葉が指し示す「意味」から起こされる映像。金子兜太さんが言うのは、これ。1の意味とは異なるけれど、一部領域を共有している。よく、俳句を「写真」に似たものだと考えている人がいるけれど、そういう人たちにとっての俳句の「美」は、こうした映像としての「美」なんだと思う。たぶん。秋元不死男の「俳句もの説」も、つまりはこれ。「俳句は写生」というときに、それを「イメージ」のあり方として捉えている人は多いと思う。

3.形式

文字や音韻。言語文芸としての俳句の視覚的「美」。俳句のリズムに焦点をあて、俳句を音楽のように評価する場合もある。どれだけこれが俳句の「美」として成立しているのか程度はわからないのだけど、こういうのが好きな人は多い。俳句を全部漢字で書いたり、全部ひらがなで書いたり、母音をそろえてみたり、これも確かに俳句における「美」の一部であるとはいえる。

おおむね、これらに分類されると思うが、これらはつまりはそこに俳句として「書かれていること」の象徴的あるいは想像的側面と言えるだろう。

俳句は当然「書かれたもの(詠まれたもの)」であるわけだから、その「書かれたもの(詠まれたもの)」にポジティブに「美」が宿ると考えられているのはもっともなことである。

けれども、ここでひとつ大抵の場合見落とされる領域がある。

それは、作者が「書き落としたこと(詠み損ねたもの)」だ。それは、俳句にネガティブに意味を与える。(「ネガティブな意味」ではないので、念のため)

これは俳句として書かれた言葉が、構造的に生み出した無意識そのものだ。(「無意識が俳句を書く」のではないので、念のため)

それは、横滑りしながら、言葉の差異によって、そこに書かれなかった領域を浮かび上がらせる。例えば、そこでは作者が「書き落としたこと(詠み損ねたもの)」のスペースを別のものが埋めている場合もある。それを、まるでルービックキューブで色をそろえていくように、ひとつひとつずらしながら、その「書かれたもの(詠まれたもの)」の構造を解きほぐし、それが語らないことで、語っている「意味」を浮かび上がらせる。

俳句が、他の文学や映画や写真や音楽などと、その美意識を異にするのは、そこである。もちろん、その領域は「感じ取る」などという精神修行の分野に頼ることなく、あくまでも言葉がダイナミックに生成する「意味」(上記の1とは位相が異なるのだが)についての、ロジカルな表れである。

それは、まるで推理小説のように、偽のアリバイを差し出す犯人を、論理的に追い詰め、その動機にまで迫るような、スリリングな「美」の領域なのである。

Facebook蛯名 健仁さん投稿記事【今日のひと言 2022.1.11】 〜選択〜

あなたは何を信じますか?あなたが何を信じても自由なのです。何を選択しても許されます。選択の仕方は?・欲望の違い・理解力の違い・経験値の違い・状況の違いからとなります。

TVや新聞といった主要メディアの報道を信じる人と信じない人と興味のない人大きく三つに分かれるでしょう。

ネット情報も口コミも同じく信じる人と信じない人と興味のない人大きく三つに分かれるでしょう。

ですが最終的には"全てが自己責任である"ということにもなります。

目の前に置かれたパンを食べるか?食べないか?は食べたいのか?食べたくないのか?欲望・理解力・経験値・状況の違いであり各自が判断することなのです。

死ぬも病むも憂うも喜ぶも…どうなるか?といった因果関係はすべて分相応の運命なのです。

選択したならば、すでに因果は決まっています。いずれにせよ原因は自身であることは事実です。

あなたは自身が選択した因果を経験してゆくだけのことです。

生きるとは?一つ一つ選択し経験し因果を学ぶことなのです。

みなみなうれしうれしたのしたのし かわるかわるありがたいありがたい

http://www.soc.ryukoku.ac.jp/~wakita/?x=entry:entry160111-123821 【樹木希林さんの死生観】より

■今月の1月5日の新聞に、出版社である「宝島社」の2016年の企業広告が掲載されました。新聞の見開きという大きさもさることながら、そこに癌の治療をしながら女優を続けてこられた樹木希林さんが登場され、ご自身の「死生観」を表明されていることから、話題になりました。

■上の写真は、樹木希林さんの広告(朝日新聞)。下は、その題材となったミレーが描いた絵画です(wikimediacommonsより)。シェークスピアの「ハムレット」に登場するオフィーリアです。絵画については全く知識がありません。調べてみました。このミレーの作品は、オフィーリアがデンマークの川で溺れて死ぬ前に歌を口ずさんだ、そのシーンを描いたもののようです。樹木希林さんは、このオフィーリアを演じているのです。つまり、もうじき死ぬことを前提にしている…ということにななります。そう考えると、この「宝島社」の広告に書かれた文章の意味もよくわかります。

「死ぬ時ぐらい 好きにさせてよ」人は必ず死ぬというのに。

長生きを叶える技術ばかりが進化してなんとまあ死ににくい時代になったことでしょう。

死を疎むことなく、死を焦ることもなく。ひとつひとつの欲を手放して、身じまいをしていきたいと思うのです。

人は死ねば宇宙の塵芥。せめて美しく輝く塵になりたい。それが、私の最後の欲なのです。

■樹木希林さんは、死を自分の日常生活の延長線上で受け止めようとされているかのようです。樹木希林さんもいうとおり、医療の技術的進歩により、人は、なかなか「死ねない」時代になりました。それに加えて、私たちの現代社会は死を「不可視化」させます。死を「隠蔽」しようとします。そして「生」ばかりを煽ります。「欲」を捨て切れません。「欲」を媒介に「生」ばかりにこだわると、「生」から「死」への移行が非常に困難になります。樹木希林さんは、生きている時から「生」と「死」の間にある境界をきちんと乗り越えるための準備をされています。それを樹木希林さんは、ひとつひとつ欲を手放すことだと言います。欲は、生への執着と関連しています。ただ、こうも言っておられます。「人は死ねば宇宙の塵芥。せめて美しく輝く塵になりたい。それが、私の最後の欲なのです」。

■これは欲と言うよりも、境界を超えた向こうにある「死」にスムースに移行するための、心に深く位置付けられたイメージようなものなのだと思います。「生」と「死」は連続しています。「生」の最期の瞬間に、すぐに到来する「死」を先取りできていないといけません。そのような意味での心の「羅針盤」が必要になります。「私」という存在は、この「地球」から生まれ、「地球」は宇宙の「塵」から生まれてきたのですから、また「私」もその「塵」に還っていくのです…樹木希林さんがおっしゃっていることは、そのような大きな宇宙的・神話的な循環のイメージでしょうか。おそらくは、樹木希林さんの場合は、そのようなイメージが、「身体」の感覚の一部になるほど深く身についておられるのかもしれません。表面的なところで「理屈」として理解したとしても、「生」と「死」の間にある境界を超えることはなかなか困難です。「境界などないのだ。両者は連続しているのだ。そのことを普通に経験するのだ」という強いイメージを持つことはなかなかできません。そのために、人類は、様々な宗教的な文化的な装置を作り出してきたのではないか、私のそう思うのです。にもかかわらず、そのイメージを実感することが困難な時代や社会に、今私たちは生きているのです。

■浄土真宗の僧侶の方とお話しをしたことがあります。私の職場には、僧籍をお持ちの方が多数働いておられますが、普段、浄土真宗の教えや死生観についてお話しを聞かせていただくことは、ほとんどありません。酒席でお隣りになったとき、たまたま偶然にそのようなお話しを聞かせていただくチャンスが生まれました。お話しの中では、お父様もお母様も、死ぬ時には苦しまれなかったということをお聞かせくださいました。それは、「お聴聞を繰り返してきたからだ」というのがその方の説明でした。浄土へとお連れくださる阿弥陀如来への感謝の気持ちを深く身体化していく、浄土真宗の教えを「理屈」だけではなく「身体」の感覚のレベルまで深く受け止めていたから…そのように私は感じ取りました。私は、樹木希林さんの「せめて美しく輝く塵になりたい」という言葉を読みながら、ふとこのようなことを思い出しました。