俳句の作り方 俳論
https://jphaiku.jp/how/index.html 【俳句の作り方 俳論 】より
不易流行とは?
不易流行とは俳聖・松尾芭蕉が「奥の細道」の旅の中で見出した蕉風俳諧の理念の一つです。
芭蕉の俳論をまとめた書物『去来抄』では、不易流行について、以下のように書かれています。
「不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風新たならず」
去来抄
噛み砕いて言うと、
「良い俳句が作りたかったら、まずは普遍的な俳句の基礎をちゃんと学ぼう。でも、時代の変化に沿った新しさも追い求めないと、陳腐でツマラナイ句しか作れなくなるので、気を付けよう」
ということです。
例えば、明治時代に正岡子規は、江戸時代以来の陳腐な俳句を月並み句として批判し、俳句の革新を成し遂げましたが、彼はいきなり新しい句を作ったのではありません。正岡子規の初期の作品は、彼が否定した月並み句そのまんまです。
子規はこれに満足せず、俳句のすべてを学ぶために、その歴史をたどって、俳句分類の作業を行ないました。
このことがきっかけで、子規は歴史に埋もれていた与謝蕪村の句に出会って、その主観的な描写表現に魅了され、試行錯誤の末、写生による現実密着型の俳句を確立させました。
正岡子規は、俳句の本質を学んでから、新しい俳句を目指すという、不易流行を体現したような人だったのです。
不易流行の『不易』とは、時を越えて不変の真理をさし、『流行』とは時代や環境の変化によって革新されていく法則のことです。
不易と流行とは、一見、矛盾しているように感じますが、これらは根本において結びついているものであると言います。
蕉門に、千歳不易(せんざいふえき)の句、一時流行の句といふあり。
是を二つに分けて教え給へる、其の元は一つなり。
去来抄
去来抄の中にある向井去来の言葉です。
「千年変らない句と、一時流行の句というのがある。
師匠である芭蕉はこれを二つに分けて教えたが、その根本は一つである」
という意味です。
難しい内容ですが、服部土芳は「三冊子」の中で、その根本とは、「風雅の誠」であり、風雅の誠を追究する精神が、不易と流行の底に無ければならないと語っています。
師の風雅に万代不易あり。一時の変化あり。
この二つ究(きはま)り、其の本は一つなり。
その一つといふは、風雅の誠なり
三冊子
俳句が時代に沿って変化していくのは自然の理だけれども、その根本に風雅の誠が無ければ、それは軽薄な表面的な変化になるだけで、良い俳句とはならない、ということです。
(風雅とは蕉門俳諧で、美の本質をさします)
これは俳句以外のあらゆることに応用できる普遍的な概念です。
時代が変ったのに古くからの法則や方法に縛られていると、国や会社などは衰退してしまうし、変えてはいけない部分を変えてしまうと、あっという間に組織などは滅びてしまいます。
利益優先のために、食品の偽装表示などをして摘発された食品会社などは、食に携わる者としての不易の部分を蔑ろにしたため、あるいは変化に「風雅の誠」となる部分を欠いていたために潰れたと言えるでしょう。
月並み俳句とは?
正岡子規は江戸時代後期(天保)から明治の俳句改革に至るまでの約百年間の句を、卑俗陳腐にして見るに堪えない物として、月並み句と呼びました。
月並みの語源は、毎月、決まって開かれる句会のことです。
毎月、新規性もなく、ただ芭蕉の教えを絶対視するだけの陳腐な句を垂れ流しているという批判的な意味が『月並み』には込められていました。
では、この月並み句とは、一体どのような句でしょうか?
書籍『子規は何を葬ったのか―空白の俳句史百年』 によると、子規は月並み句の特徴を次のように語ったそうです。
1・感情に訴えずに知識に訴えようとするもの。
2・陳腐を好み、新奇を嫌うもの。
3・言語のかいし(たるみ)を好み、緊密さを嫌う傾向。
4・使い慣れた狭い範囲の用語になずむもの。
5・俳句界の系統や流派に光栄ありと自信するもの。
参考:書籍『子規は何を葬ったのか』 著者:今泉恂之介
子規が生まれたのは、明治維新の前年である1867年です。
徳川幕府という古い秩序が崩壊し、開国、文明開化という激動の時代に生まれ育った子規は、保守的な俳句界の空気に疑問を感じ、改革を断行する気概に溢れていたのでしょう。
陳腐な句、伝統を絶対視する風潮に並ならぬ嫌悪感を持っていたようです。
だた、彼の挙げた五つの特徴は、やや抽象的で、わかりにくい点があります。
例えば、「感情に訴えずに知識に訴えようとする」ということは、どういうことなのでしょうか?
子規の没後、子規派の俳人たちは雑誌「ホトトギス」上で、月並み俳句の特徴を以下のようにまとめました。
1・駄洒落
2・穿ち
3・謎
4・理知的
5・教訓的
6・厭味(いやみ)
7・小悧巧(こりこう)
8・風流ぶる
9・小主観
10・擬人法等
参考・明治書院「俳諧大辞典」
つまり、「知識に訴えようとする」ということは、具体的に言うと「駄洒落」「穿ち」「謎」「理知的」「厭味」「教訓的」「小利口」といった要素を句に含むということです。
子規は、俳句に思想や理屈を持ち込むことを嫌い、美的感覚に重きを置くべきだと考えていたようです。
江戸時代後期、明治以前の俳句には二種類あり、一つは作者の主観的な美意識を込めた、現在と同じタイプの物。
もう一つは、語呂合わせや掛詞、風刺、穿ち、訓戒、推理といった言葉遊び的なものです。俳句の元となった「俳諧の連歌」の滑稽さ、卑俗的な言葉遊びを残したものだと言えるでしょう。
例えば、桜井梅室の
三木あれど森にはならぬ柳かな
などは、「三つ柳の木があるけれど、森とは呼べないな」という、俳句の形を借りた言葉遊び的なものです。
子規が批判したのは、このような句だったと言えます。
ただ、子規は名句と名高い加賀千代女の
朝顔に釣瓶取られてもらい水
をも俗気の多い駄句として、俳句とは言えないと痛烈に批判しています。
なぜかというと、朝顔を擬人化し、「もらい水」などと自身のやさしさ(思想)を詠みこむところが蛇足であり、本来は、朝顔のツタが釣瓶に巻き付いた様子を、そのまま写生するのが良いと言いました。
私はこの句は、作者の心情を素直に表した余韻溢れる名句だと思うのですが、子規のこの評価を受けてか雑誌『NHK俳句』でも、風流ぶった駄作として、批判されたことがありました。
ただ、千代女の句の世間的評価が高いのは揺るぎない事実です。
つまるところ、俳句の評価というのは個人の価値観に寄るところが大きく、擬人法を使っていたり、風流ぶっているから駄句だとは、一概には言えないということです。
また、「風流ぶる」ということと、「風雅」を探求することも紙一重で、人によってその感じ方は違うでしょう。
松尾芭蕉の一派である蕉門では、風雅とは俳句の美の本質であると言います。
師の風雅に万代不易あり。一時の変化あり。
この二つ究(きはま)り、其の本は一つなり。
その一つといふは、風雅の誠なり
三冊子
松尾芭蕉は、俳句の根本は一つであるとし、それは「風雅の誠」であると言いました。
これを受けて、風雅な句を作ろうと苦心した結果、子規派の俳人から「風流ぶっている」と酷評される月並み句が生まれるという罠にはまることは十分に考えられます。
千代女クラスの俳人でさえそうなるのですから、初心者としては、あまり月並み句になることを恐れず、思うがまま句作に励んでいくのが正解かと思います。
擬人法は月並み?
明治時代を代表する俳人、正岡子規に連なる俳人たちは、月並み俳句の特徴の一つとして『擬人法』を上げました。参考『月並み俳句とは?』
擬人法とは、植物や動物や自然などを人に見立てて表現することです。例えば、鳥が歌う、花が笑う、などといったものです。
月並み句とは、要するに駄句のことです。
しかし、正岡子規の後継者である高浜虚子は、
大寺を包みてわめく木の芽かな
という植物を擬人化した句を詠んでいます。
また、松尾芭蕉の名句である
さみだれをあつめて早し最上川
も川を擬人化したものであるとされます。
この他にも、擬人法を使った名句は、多々あります。
『NHK俳句』の俳句選者を務めた高野ムツオも、
うしろより来て秋風が乗れと云う
という風を擬人化した句を詠んでいます。
つまり、擬人法を使っているから、悪い句であるとは一概には言えないということです。
擬人法は意外性のある句を作れる魅力的な手法として知られています。
子規派の俳人たちが『擬人法』を月並み句の特徴に加えたのは、これを安易に使うと、気取った作意が透けて見える、薄っぺらい句になってしまうからです。
また、擬人法の発想というのは、どうしても似たり寄ったりになりがちで、陳腐な句が生まれやすいという欠点があります。
もし擬人法を使うのであれば、常識から外れた発想が必要となるのです。
しかし、初心者が突飛な発想をしようとすると、人をアッと言わせることに力を入れるあまり、対象を良く観察しないで作ったものになりがちです。
これでは動物や植物などに接したことで得られた、ありのままの「感動」を伝えることができません。
「いかにうまい俳句を作るか? ではなく、いかに素材に接した感動を伝えるか?」が俳句本来の醍醐味です。
初心者の場合は、擬人法に頼ろうとしないで、まずは対象を良く見て、写生するところから始めるのが正解となります。
しっかりとした写生の表現技法を身につけ、自身の句を冷静に、客観的に見られるようになってから、擬人法に挑戦するのです。
擬人法は難易度が高い、玄人向けの手法であると言えるでしょう。