句会
https://note.com/imaoemiko/n/nb9149eaf4468 【俳句は2文字でがらりと世界が変わる】より
毎月参加している句会では、1人5句を持ち寄り、先生(日本伝統俳句協会副会長)にすべての句から良いと思うもの=入選句と、特に良いと思うもの=特選句を選んでいただく。
11月は、こちらが特選句となった。
木の葉雨どの人生も一度きり
「木の葉雨」は、木の葉が雨のように降る様子を表す冬の季語。
先生の解説は、「『どの』が上手い。『どの』がなければ、「私の人生が一度きり」と、自分だけのことを言っていることになる。『どの』があることで、みんなの人生になる。そこに、あらゆる人間が一度しか生きられない、という悟りと、私だけではない、という安心感が生まれる」というもの。
それを聞いて、ドキッとする。実はこの句、もともとは「木の葉雨人生はただ一度きり」と作っていたのを、どこかしっくりこなくて直前で変更してできたもの。そんなメイキングまで見透かされているような神がかった言葉に、俳句のコミュニケーションツールとしての威力を感じる。だった17文字で、その文字をはるかに超えた、何倍、何十倍もの世界をやりとりできる力。そしてその世界は、たった2文字で、まったく違ったものになる。
そして、もう一つ。
着ぶくれて無敵の体となりにけり
「着ぶくれ」は文字通りで、わかりやすく冬の季語。
先生からは「『着ぶくれ』という季語は好きで良く使いますが、こういう表現があったか、と関心しました」という有難いお言葉をいただく。
こちらは、「無敵」のところを「無傷」にした2バージョンを作っていた。直前にその2つを書き並べて考えていると、隣に座っていた先輩が「こっちがいいよ」と「無敵」バージョンを指さす。もちろん相談したわけでもなく、きっと彼女も見るでもなくふと視界の端っこに入ったくらいだったのに、何かのアンテナに引っ掛かったのかもしれない。
個人的には「無傷」の方が素直な言葉。けれど、ものは試しで人の感性に委ねてみようか。と迷った末に「無敵」で出すと、二人の先生が二人とも特選句に選んでくださる結果に。もし「無傷」にしていたら、箸にも棒にもかからかなかった可能性は高い。ここでもまた、わずか2文字で伝わる世界が変わった。
わずか2文字、いや、無傷と無敵の差は、1文字。ということで、俳句はたった1文字でがらりと世界が変わる、といことを実感した句会の話でした。そして、大きな世界をたった17文字に切り出すには、読み手を信頼して委ねることも大切なのだと。
https://mediaseven.jp/2021/10/%E4%BF%B3%E5%8F%A5%E3%82%92%E4%BD%9C%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%BF%E3%82%88%E3%81%86%E3%80%8012%E6%9C%88/ 【俳句を作ってみよう 12月】より
楽しく俳句の一歩を踏み出してみませんか。講師は俳人としても講師としても活躍されている黒澤あき緒先生です。
①投句にチャレンジ
※①に参加される方は、事前に季語:雪催(ゆきもよい)で一句、自由句で二句の合計三句を作成してください。
②初級クラス
※初心者向けのクラスです。俳句の成り立ちや、作り方の説明など易しくお話ししてくださいます。
実際に俳句を作成し、後半は句会を行います。
日時 12月10日(金)
①10:00~12:00(休憩なし)
②13:00~17:00(途中休憩あり)
定員 各12名
料金 1,000円
対象 18歳以上(初めての方は、②初級クラスにお申し込みください。)
12月10日(金)①投句にチャレンジ ①10:00~12:00
https://www.eco-morikawa.jp/9daime/2015/03/post_1952.html 【俳句例会、五七五で繋がるコミュニケーション】より
さだまさしコンサート in 那智勝浦、商工会青年部事業でしばらく行けてなかった新宮青年会議所の例会に参加してきました。
今回の例会は、俳句例会、五七五で繋がるコミュニケーションと題した、俳句の勉強会でした。
九代目が所属している委員会の担当例会だったのですが、予想よりも格段に楽しく勉強させていただきました。
趣味として確立されているだけあって、俳句、相当奥が深そうです。
勉強会の最後に、メンバー全員がそれぞれ一句読み、先生に選定していただいての、特選、入選句の発表がありました。
九代目恥ずかしながら、何と!特選。その一句をご紹介させていただきます。
春の夜に 試行錯誤し 初俳句 おそまつさまでした。
http://zentekido.jugem.jp/?eid=35 【句会に参加して―私の俳句観】より
去年も参加した城陽の俳句大会に今年も参加。
結社に入ってもおらず、圧倒されるような句に出会えば入ってもいいのですが。
やはり、今回もたいていの句はご高齢の方たちばかりなので、年取ってどうだとか、独居で寂しいだとか、孫がかわいいだとかいう句が多く、とくに俳句にしなくてもよいようなことばかりのような気がします。
日常を切り取ることが俳句ではあるのですが、私のよしとする俳句は日常と非日常がぴったり重なっている瞑想がもたらす瞑想的な作品。日常が重力に支配されているとするなら、その重力が無化されているような。おばちゃんの井戸端会議がその雰囲気のまま句にされても高齢者の寄り合いには助けになるかもしれませんが、それ以上ではなく。
俳句人口は多いとされながらも高齢者のものというイメージがつきものなのはそういうことかもしれません。
中にはいいというものがありますが、あまりにも「老人の日常俳句」が多すぎます。
日常でありながら、その日常が非日常でもあることを活写したものを見たい。それを瞑想的な句と言うことにします。
詩情あふれると言ってしまえば、抒情に流された短歌的なものも含まれてしまうので。
よいと感じた句は、
1・世の中は少し変だと亀が鳴く
「亀鳴く」は春の季語。実際に亀は鳴かないが、そういう気がすると。世の中の変化に違和感を抱く、それは決して大きなものではなく、亀の鳴くくらいの微かなものではあるけれども、おろそかにはできない。声高に叫ぶのではなく、小さな声(違和感)に敏感であることは、批判的ではないニュートラルな姿勢。
2・如月を静かに通す古都の川
如月を通すという表現が見事。しかも静かに、滞りなく。
3・見送るは祈りに似たり鳥雲に
「鳥雲に(入る)」は春の季語。鳥の大群が北へ帰っていき、雲の向こうに消えていく。それを見送る様が祈りに似ているというのだ。時間がとまっているようで、間断なく鳥と共にいる瞑想的な句。
4・着流しの龍太出でませ春の月
龍太は俳人、飯田龍太であろう。句は多少知っているが、どんな姿かは知らない。しかし春の月に着流しの似合う人だったのだろう。かっこいい。迫力を感じる。
ちなみに、私が選者に選ばれた一句
馬の背に寝転び開く春の空
選者は、山の尾根を馬の背というので、そこで寝転がったと解釈していました。
実は、馬の背は本当の馬の背中なのですが。馬に乗るということが一般的ではない表れでしょう。しかも、馬の背中に寝転ぶというのは想像できないのでしょう。自分の日常の守備範囲で物事は捉えられてしまいがち。開くという表現を評価していただいたので、そこはポイントではありませんでした。
提出は三句でしたので、「馬の背」の句のほかに
汚れつちまつた悲しみ落椿
静寂に耳洗はれて春の夜
を提出しました。前者は一票入りましたが、後者はなし。上手い下手はともかく、俳句と一言で言っても、その嗜好は人によって違う。単なる日常の意識のまま日常を詠むだけなら、俳句は要らないと私は考えます。
瞑想意識がふと掬った気づきを俳句という形にする。本来、言語に日常も非日常もない。やかんと言っても、言う人によって水を入れて出すという機能のもの以外の質がこめられる。その質をどう表現しているか、そこに俳句のおもしろさはある。
そういった意味で俳句は芸術でしょうが、日常の意識による日常は芸術ではない、ゆえにその意識の俳句は芸術ではありません。
俳句とは、日常をよく見て、日常に沈潜することで浮かび上がってくる言葉。沈潜は瞑想と同義でありますが、このような自身の在り方を開発しようというのは稀なこと。しかし俳句はその稀な在り方を深めようという訓練です。
頭の体操としても非常に有効です。脳は変化に反応します。テレビを見ていても受動的なので、脳はほとんど反応していません。
それが葉っぱの色が変わったりと少しの変化に気づくことで脳は活発になります。
ただ、俳句はすでに述べたようにそれ以上のものです。すぐれた修養法だとすら思っています。簡便であり、尽きないおもしろさがある。上手い下手を気にせず、なんとなく続けてきている理由でしょう。