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句作は自我(エゴ)と自己(セルフ)の統合を促す

2022.11.19 07:09

https://www.chunichi.co.jp/article/132947【9年10カ月 生きた証し詠む 小松の山多さん 毎日句作 ギネスに世界記録認定申請】より

 詠んだ俳句は十二万句以上。小松市下牧町の建設・不動産業山多武さん(73)は、二〇一〇年十二月から一日も欠かさず句作を続けている。「つらいことも俳句に落とし込んで救われることがある」。句作はもはや生活の一部。「ここまで来たらやめられない」と「毎日句作」の世界記録認定(連続日数)を求めてギネスに申請した。 (坂麻有)

 「歯応えが堪(たま)らなく好き胡瓜(きゅうり)漬け」。妻の作る漬物を詠んだ一句だ。「紫陽花(しちへんげ)をはりの色となるもよし」は、色があせても長く咲き続けるアジサイに人生を重ねた。俳号は「山多左夢(さむ)」。日々、目にするものや感じたことを五七五で表現する。「毎日作っている俳句は日記のようなもの」とほほ笑む。

 十九歳で建設会社を立ち上げ、仕事一筋に生きてきた。六十歳を過ぎてから市内の俳句愛好家でつくる「みどり句会」に誘われた。手ほどきを受けたのは五月に亡くなった会の指導者、荻聖樹(おぎせいじゅ)さん。小説家・登山家深田久弥がつくった句会「はつしほ」の初代会長で、初心者の句でも長所を必ず褒める指導を受けた。〇九年のNHK全国短歌俳句大会で入選するほどの実力になった。

 俳句作りに慣れた十五年ほど前、パソコンの練習も兼ね、俳句を表計算ソフトに入力し始めた。九年半前から日付や番号も振ってデータを保存している。句作するのはB5紙に収まるだけと決めている。当初は三十二句だったが、今では三十九句に増えた。現在も社長業の傍ら、仕事を終えた後、毎日続ける。

 「コツコツ続けることが得意。俳句作りは金を掘るようなもの。多作の中で良作が生まれるとうれしい」。句作を続けて以来、一度も風邪をひいていない。毎日作ったと分かるよう天気なども必ず句に添えている。「今日一日を生きた証しにもなる」と話す。

 十二月で毎日の句作は十年を迎える。節目を前に七月末、ギネスワールドレコーズジャパン(東京都)に世界記録に認定するよう申請した。日本伝統俳句協会や現代俳句協会によると、毎日句作に励む人はいるが、世界記録を目指す人の話は聞いたことがないとのこと。記録になると認められれば証拠資料を提出し、審査される。「認定されたら、みどり句会の先生や先輩、それに荻先生にも仏前で報告したい」。日々の句作にさらに熱がこもる。

Facebook清水 友邦さん投稿記事「禊祓(みそぎはらえ)」

日本の神道は禊祓(みそぎはらえ)につきます。

辞典に禊は海や川や滝の水で体を清め、罪や穢けがれを洗い流すこととあります。

あるいは、神主が祝詞を奏上して大麻・ 大幣(おおぬさ)を振る所作で穢(けがれ)を払ったり、人形(ひとがた)を川や海に流したり茅(ち)の輪(わ)をくぐったりする神社の儀式と思っている人が多いようです。

通俗的には水垢離(みずごり)をすればケガレが清められると思っています。

ヒンドゥー教やイスラム教も神道と同じように沐浴して身を清めてから礼拝します。

ヒンドゥー教とイスラム教の信者両方から尊敬されたカビール(1440~1518)というインドの聖者がいました。

カビールは神聖なる沐浴所で沐浴をしても心に何の効果もなかったので無用であるといいいました。

そして沐浴しても凡庸なままのバラモンを皮肉って次のようにいいました。

「バラモンは他の人に触れられるとけがれをはらう為に沐浴するが、君ら自身よりももっと堕落したものがいるなら教えてくれ」

カビールは宗教者の祭儀、儀式の形式主義を手厳しく指摘しました。

毎日お風呂に入ったからと言って心まできれいになっているわけでありません。

物と心は異なるカテゴリー(範疇)なので、それを一緒にしてしまうことはエラー(錯誤)なのです。

昔から、「ハレ(晴れ)」と「ケガレ(穢れ)」という考え方がありました。

ケとキ(気)は異語同義語で、キ(気)は目に見えない潜象エネルギーをあらわしています。

生命エネルギー(ケ)が枯渇するのが「ケガレ(褻・枯れ)」です。

そこで神を迎える「まつり」を行い生命エネルギーを回復させるのです。

神を迎える前のイミ(斎・忌)の期間コモリ(籠もり)ます。

そうしてミソギ(禊)やハライ(祓い)を通じてエネルギーを回復させます。

こもっている期間中の最後に神が現れてハレとなります。

そうして魂(タマ)が蘇る(ヨミガエリ)のです。

罪(ツミ)のツは包むのツで、ミは自己の本質のことです。

ですから本来の自己が思い込み(ツミ)で覆い包まれてしまうと、エネルギーが流れなくなり、気が枯れて、「ケガレ」てしまいます。

そこで、エネルギーを回復するためにコモリ(籠もり)「ミソギ」で罪(ツミ)を削ぎ(ソギ)はらうのです。

魂を覆っている偽りの自我から自由になるのが本当の禊祓いなのです。

あらゆる精神的な道は偽りの自我(エゴ)と本当の自己(セルフ)の統合を教えています。

https://kotento.com/2017/07/28/post-154/ 【ユングの個性化の過程】より

「自己(セルフ)」…人間の意識も無意識も含めた心全体の中心にあるもの。自我を包含している全体的で完全なもの。普遍的に人間すべてがもつもの。

「自我(エゴ)」…自己からの分離によって、一部分のみ選択され意識(表面)化されたもの。自己の上に浮かぶ島のようなもの。私個人固有のもの。

自我が自己からの分離の過程で失った完全なものの可能性を取り戻すことによって全体性を回復し、「自己」を実現すること。

それが人を成長(自己実現)させる。

これを「個性化の過程」という。

具体的には

会社員Aさんがいます。

彼は文化系で真面目、勉強も仕事も熱心に取り組み、家族想いです。

それが、今の彼の「自我」像です。

しかし彼は生まれた時からそういう自我を持っていた訳ではありません。

大人になる過程で、それらを選び取った(あるいは取らされた)のです。

不真面目ではなく真面目を選び、体育系ではなく文化系を選び、遊びよりも勉強や仕事を選び、独身であるより家族生活を選んだのです。

生まれた時は何者でもなかったAさんが、それらの選択を通して個性を持つ、自我を獲得していったのです。

多くの場合それらの選択は、なりゆきや環境による強制、他の可能性に対しての情報不足などによって、十分な検討を経ることなく選ばれたものであり、本当の意味での選択とは言えません。

Aさんの自我に選ばれなかった可能性たち(不真面目、体育系、遊び、独身)は完全に捨てられた訳ではなく、無意識の底に眠り続けています。

やがてそれはコンプレックスという形をとって、亡霊のように意識にあらわれ、自我を苦しめます。

Aさんは、不真面目で体育系の遊び人、独身貴族の上司Bさんを見る度に、嫌悪感と苛立ちと不安を覚えます。

そのため、会社内でのコミュニケーションが円滑に進まず、仕事にも悪影響が出てきます。

人は自分の持っていないものを持っている人に対して、嫉妬や怒りの炎を燃やします。

しかし、一度持ったものを、あえて自分で捨てた人は、けっして嫉妬などしません。

生まれながらの貧乏人はお金持ちを嫉妬しますが、お金持ちが金に嫌気が差して財産を捨てて自ら選んで貧乏人になった場合は、嫉妬をすることなどないでしょう。

なぜなら、お金持ちという可能性を捨てる際に、それについて自我に納得(統合)されているからです。

だから、Aさんが嫉妬や不安を解消し、前進するためには、自我が過去に捨て去ったそれらの可能性ともう一度向き合い、検討(対決)し、理解し、納得(統合)する必要があるのです。

例えば、一度、上司Bさんの趣味であるサーフィンについて行って、体育系や遊びを体験し、理解してみるのもよい検討方法かもしれません。

また、上司Bさんへの嫌悪感は、Aさんの生きられなかった可能性をコンプレックスとして投影した自分自身の問題であり、それを解決するのは私自身の心持であることを、深く自覚することで納得(統合)できるかもしれません。

どうあれ、過去に十分に検討することなく捨てられた自分の可能性たちと向き合い、和解することによって、「自我」は成長し、完全態である「自己」により近づき、自己実現が成就します。

不良少年が、過去に捨てた自分の真面目さと対決、統合し、優れた教師として自己を実現することなどがよい例です。

真の成長とは

私たちが一般的に考えている成長とは、成長ではなく、ただの選択です。

選択によって、ある可能性を捨て、ある可能性を選び取ることで、特化していくだけにすぎません。

普遍から特殊へ、全体から部分へ、完全から不完全へと分化し、特殊な形態を獲得することを成長と呼んでいるのです。

つまり私たちは、何かを獲得した分、同時に何かを失っているのです。

例えば、人間の胎児の手指の形態形成前は、ドラえもんの手のような「しゃもじ型」をしています。イメージとしては、そこから五本の手指が生えてきて新たな機能が獲得されると思われますが、実際はしゃもじ型が部分的に細胞死することによって五指の形態が獲得されます。

自分の手の指と指の間の隙間を眺めて欲しいのですが、母のお腹の中にいた時には、この何もなかった空間は身体細胞で充たされていたのです。

その細胞の諸可能性を失ったことによって、現在の手指の機能を獲得したように、私の現在の個性は、過去において失った別の個性を鋳型として形成された半身でしかないのです。

子供は、跳びはねながら歩いたり、蛇行しながら歩いたり、手足を揃えて歩くナンバ歩きをしたり、様々な歩き方をします。

そうしていると大人に「大人しく(大人らしく)しなさい」と叱られ、多様な歩き方の可能性を止め、明治期に導入された西洋式の軍事訓練をベースとした現在の私たち大人の歩き方へと特化させられます。

私は歩行の様々な諸可能性を捨て去ることにより、大人の歩き方を獲得し、それを成長と思い込むのです。

ユングの言う成長とは、その事実を反省的に自覚すること、元の全体性をもう一度取り戻すこと、その上で再選択することです。

過去を乗り越え未来に向かうという既存の進歩的な成長観とは正反対に、過去という完全性へ向かい失った諸可能性を再統合することが成長なのです。

私たち一般人の考えている成長とは、ただの忘却(昔の可能性を忘れることで、新しい可能性を手に入れたと錯覚しているだけ)にすぎません。

老年になってから多くの人々が、「結局自分は何の成長もしていない」という事実に気付くのは、本当の成長というものを理解せぬまま年を重ねただけだからです。