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超人ザオタル(52)静寂とは何か

2022.01.26 01:07

気づくとふたりは瞑想から出てきていた。

何とはなしに私の言葉を待っているようでもあった。

「瞑想はどうだったのかな」

私は柔らかな物腰でそうふたりに聞いてみた。


アルマティが口を開いた。

「瞑想での静寂とは何なのでしょうか、ザオタル。

私がそれを感じるということは、それが自分の中にあるということですよね。

静まり返った暗闇が、私の一番奥底にあるものです。


それが一体何なのか、自分のことなのに分からなくなります」

タロマティもそれに続けて言った。

「静寂でいることが退屈で意味ないのであれば、

それは自分が退屈で意味ないということになります。


道とは自分が誰なのかを知ること。

その結果が退屈で無意味だとするなら、それは道の帰結ではない気がします。

もっと他にあるはずという気持ちになりました。

静寂とは何なのか、私もそれを知りたいのです、ザオタル」


「静寂とは何か」

私はそこで一呼吸置いた。

「そう、静寂とは本当の自分の本性というべきもの。

そこには本当の自分がいるのだ。

そこには本当の自分しかいない。


だからそこには静寂しかない。

ただ、静寂を感じてしまうとそれは本当の自分から離れてしまう。

本性から感覚へと意識の焦点がずれてしまうのだ。

感覚は一時的で移ろいゆくもの。


それは世界に持ち込まれて、淡雪のように溶ける。

いつしか静寂はこの世界の音に埋もれて聞こえなくなる。

だが、本来それは自分の本性だから消えることはない。

瞑想をすれば、それがまたありありと浮かび上がってくる。


それが自分なのだからあたりまえのことだ。

静寂は本当の自分のことだが、それだけのことではない。

それは存在しているのだ。

そこに認識という物言わぬ知性がある。


つまりそれは存在していると知っているということだ。

静寂という感覚だけに埋もれていると、このことを見逃してしまう。

静寂であり、認識であり、存在でもある。

そしてそれはひとつだけだ。


ひとつだけだから、いつでもその存在に戻ってこられる。

それは失われることがないからだ。

自分は決して失われることがない。

そしてその存在は変化しないのだ。


そういったことが静寂として感じられるということだ。

そういった自分を見出していくことが瞑想の道。

それは決して退屈で無意味な道ではなく、驚くべき発見の道なのだ」

私はふたりを説得するのではなく、私の理解していることを淡々と話した。


タロティマが口を開いた。

「それでも私は静寂に意味を見つけられません、ザオタル。

何度静寂に浸っても、きっと同じことです。

たとえザオタルの言っていることが正しくても。


瞑想での静寂は何も変わらないでしょう。

そこにいることに何の意味があるのでしょうか。

本当の自分でいることに何の価値があるのでしょう。

私は瞑想中、ずっとそこにいました。


そして瞑想から出てきましたが、何も変わりません。

それが本当の自分だと知っても、私は何も変わらないのです。

何も変わらないなら、それをする意味が分かりません。

それよりも草原の清々しい朝の輝きの方が価値ある気がします」