マクロコスモスとミクロコスモス
https://minamiyoko3734.amebaownd.com/posts/17413105?categoryIds=4516814 【内臓は宇宙を内蔵する!/五つの母音と感情、心の食べ物】
https://www.symphogear-axz.com/keywords/key46.php 【マクロコスモスとミクロコスモスの照応】より
大きな宇宙観を意味するマクロコスモスと、小さな宇宙観を意味するミクロコスモスを照らし合わせる事で、万象の在り方や仕組みを解析・再構築しようとする考え方。
錬金思想の基礎中の基礎。
その考えは、数多く残されている錬金術を表した寓意画の中にも残されている。
エルフナインは、世界を大きな命に見立てて造られた「賢者の石」と、立花 響という小さな命から造られた「愚者の石」を照らし合わせる事で、ラピス・フィロソフィカスのファウストローブへの打開策を考案。実現している。
賢者の石を意味する「一にして全なるモノ」という言葉もまた、「一(ミクロコスモス)」と「全(マクロコスモス)」の照応によって完全の在り方、そのひとつのカタチを言い表したものである。
https://www.mskj.or.jp/report/2796.html 【ミクロコスモスとしての人間観】より
源馬謙太郎/卒塾生
「人間とは何か」 この問いは松下幸之助塾主が我々政経塾生に課した永遠の問いである。この「人間観」レポートシリーズを通して、この問いに対する考察を深めていきたい。その第一弾として、人間自身と宇宙との対比から塾主の提唱した人間道について考察する。
1.はじめに
現在の日本は、松下幸之助塾主がその未来を憂い松下政経塾を設立したころからどう変わっただろうか。確かに物質的な豊かさはその度合いを増し、技術や文化もさらに進歩し高度化した。しかし、果たして現在の日本を見て、塾主は理想の姿と是認するだろうか。悪化するばかりの財政問題、加速する少子高齢化問題など、多くの問題が山積している現状を見ると、甚だ疑問であるといわざるを得ない。
この国の未来を明るいものとするために、基本的な命題を考察・研究し、また現場での研修を通して国家のあるべき姿やビジョンを探求する真のリーダーを育成する必要がある、との思いでこの塾は設立された。その基本的命題の一つが「人間とは何か」の問いである。人間が存在し、構成しているこの社会であるからには、人間とは何かを探求することによって、いかに生きいかに生かすべきかが明示され、そこにこそ人間社会の目指すべき方向が見えてくるはずである。
我々松下政経塾生は、わが国に明るい未来をもたらし、そして人類の繁栄幸福と世界の平和に貢献することを使命としている。この使命達成のためには、その構成要因である人間とは何なのか、人間とはいかにあるべきかという人間観を探求することが必要不可欠なのである。
本レポートはその人間観の探求の第一弾として、塾主の提唱した人間道を宇宙と人間の対比という文脈から捉え、人間のあるべき姿、進むべき道を探る試みである。
2.人間観と人間道
前述したとおり、現在のわが国も幾多の問題を抱えており、また世界に目を向ければさらに多くの問題を抱え、我々人間の営みは平和と繁栄には程遠いといわざるを得ない。
それではなぜ、我々は争い続け、未だ平和や真の繁栄を享受できていないのだろうか。我々人間の宿命は、技術や学問を進歩させながらも、他方では絶えず争いを繰り返し自ら不幸を招いていくものなのだろうか。
松下幸之助塾主は「新しい人間観」を提唱し、この問いに対し、本来の人間とはそういう宿命を背負ったものではなく、万物を支配する力を持った存在であり、「たえず生成発展する宇宙に君臨し、宇宙にひそむ偉大なる力を開発し、万物に与えられたるそれぞれの本質を見出しながら、これを生かし活用することによって、物心一如の真の繁栄を生み出すことができる」存在である、としている。
これが塾主の「新しい人間観」の中心的思想である。
そして、これが人間の本質であるならば、この本質をどのように自覚し、またそれを活かしていくべきかということを探求していく基本的な考え方を「人間道」として提唱した。
その基本的考えの中でも特に人間が他者とどう関わりあっていくべきか、また万物に対してどう向き合っていくべきかを思想の中心においている。つまり、
人間には、万物の王者としての偉大な天命がある。
かかる天命の自覚にたっていっさいのものを支配活用しつつ、よりよき共同生活を生み出す道が、すなわち人間道である。
人間道は、人間をして真に人間たらしめ、万物をして真に万物たらしめる道である。
ということである。
人間同士がどのように交わり、共同生活を営んでいくべきなのか、が人間の具体的な歩むべき道である。この塾主の人間道によれば、それぞれの行為や事象が人間道に沿っているかを考えていくことで真の調和が生まれ、ひいては物心一如の繁栄をもたらすのである。そしてこの人間道の実践は国家間のかかわりにも応用することができ、つまり万物の王者である人間がその天命を自覚し行動することは世界の平和にまでつながるという思想であり、その目指すところは万物いっさいの調和ある発展である。
3.「いっさいを容認する」
それでは、この人間道を実践するにはどうしたらよいのだろうか。
「新しい人間道の提唱」は以下のようにつづく。
それは、人間万物いっさいをあるがままにみとめ、容認するところから始まる。すなわち、人も物も森羅万象すべては、自然の摂理によって存在しているのであって、一人一物たりともこれを否認し、排除してはならない。そこに人間道の基がある。
人間は千差万別であり、それぞれが個性を持ち、当たり前のことであるが一人として同じ人間は存在しない。善人もいれば悪人も存在する。そしてそれぞれの得意や能力も違うのである。人はそれぞれ特質を持つという、相互の違いをはっきりと認識することがまず大切なのである。
一方人間とは、自分の内面にも多様な感情を持ち、その中には崇高な部分もあれば、低俗な部分も持ち合わせている、多様性の集合体のような存在なのである。人間はその自我や多様な感情ゆえに、他者を愛することもできるが憎むこともある。往々にして自分の感情に左右され、他者を排斥することも少なくない。これはおよそ人間が共通して持っている人間の特性であり、この共通性も先の個人間の違いとともに客観的に理解しておくことが重要である。
上述のとおり、人間はそれぞれが違う価値観や特質を持つという相違性と、人間が本質として持つ共通性をともにみとめ、容認することが、人間がいかにあるべきかという人間道の実践において重要なのである。
すなわち、共同生活を営む時、人それぞれが違う価値観や特質を持つという理解にたち、違いを持った人間が共生するためにある程度の規則を作ることが必要であると同時に、本来人間には欲望があり、規則で縛りすぎるのは逆効果である、などという共通性を認めることが求められるのである、自分の思い込みや感情にとらわれることなく、あるがままにこれらいっさいを認めることが人間道実践の第一歩である。
しかしながら、ここでいう容認とは、すべてのものをそのままよしとする、という意味ではないということに留意しなくてはならない。すべてをよしとするということは容認ではなく是認するということであり、強制のための責任の放棄であり、王者である人間の本質からは外れている。これではそれぞれの多様性がそれぞれのベクトルを向き、全体の調和は取れない。調和には何らかの秩序が必要なのである。その調和の中にこそあらゆるものは共存でき、活かし生かされ生成発展していくのである。容認とは、すべてをあるがままに受け入れ、その上に立って適切に対処していくことであり、これこそがまさに王者である人間のあるべき姿、つまり人間道なのである。
4.宇宙と人間
この「いっさいを容認する」とは、人間の相違性と共通性を認めるということのみならず、この世界、この宇宙に存在する森羅万象すべてにおいて同様であり、この世界はさまざまな多様性の上に存在し、それが何らかの摂理・秩序の上に成り立っていることも同様に理解すべきなのである。つまり、人間という枠の中にいろいろな感情や特質、そして多様性が存在し、それらが何らかの摂理によって存在せしめられていることを容認することと同様、この宇宙に人間や草木をはじめとする多様な森羅万象が存在し、何らかの摂理のもとに存在しているのである。
宇宙をマクロコスモスと捉えれば、我々人間の内面はミクロコスモスである。我々人間の中はまさに森羅万象が宿る宇宙(コスモス)なのである。そしてこのコスモスの中心にある、何らかの摂理・秩序を松下幸之助塾主は「自然の理法」または「天地自然の理」とよび、この秩序に従うことこそ「大義」であるとしたのではないだろうか。
孟子の「尽心章句」に次のような一節がある。
孟子曰く、万物皆我に備わる。身に反りて誠ならば、楽しみこれより大なるはなし。
恕を努めて行う、仁を求むることこれより近きは莫し。
この一節は、およそ次のような意味に解釈できる。
「天地万物はすべて自分の内面に存在している。自分自身を考察してみて、天地自然の理法を自分の内面の中に認識し天地と自分が一体の境地になれば、これより大きな楽しみはない。そこでできるだけの努力をして恕の心を周囲に及ぼせば、それが仁を達成する最も手近な方法なのである」
安岡正篤によると、孟子における「恕の心」は、限りない包容力であり、すべてを恕(ゆる)す心である、と解釈できる。つまり、自分の内面というミクロコスモスと天地万物を内包する宇宙全般というマクロコスモスを一体として解釈した時、その中に存在するすべての多様性を包容することにより、仁が達成されるのである。そして、ここにおける仁とはあるべき姿、すなわち天地自然の理であり、万物を生成発展させる働きを示すのではないだろうか。これこそがまさに、塾主が提唱する人間道の実践における「いっさいを容認する」ことの意義なのである。
5.終わりに:真理の追究
さまざまな事象、価値観、自然、感情などが多様に存在するコスモスであるが、ただ多様なものが散在しているわけではない。すべてが共存し、生成発展していく天地自然の中心には、多様性を秩序立てる根源が存在するはずである。松下幸之助塾主はこれを「真理」と呼ぶが、この真理を探究し、それに近づこうとすることこそが誠の道であり、我々松下政経塾生の進むべき道である。
森羅万象の多様性同様、真理は一つであっても、それを探究する誠の道は、これもまさに多様なはずである。孔孟が説いた誠も、新撰組が掲げ貫いた誠も、狂といわれてまでも吉田松陰が信じた誠も、そして塾主が我々に託した誠も、すべて真理へ続く道のはずであり、これも他を排斥するのではなく多様性を容認しお互いの誠を生成発展させていくべきものなのだ。
人類の繁栄幸福と世界の平和を実現するリーダーを目指す我々は、この視点を忘れてはならない。自らの中で確固たる理念・ビジョンを確立することはもちろん必要不可欠なことであり、それを主座として保つことは重要なことである。しかし、その理念・ビジョンのみに固執し、他者に同じものを共有させることに努めるのではなく、この世界や宇宙の多様性、価値観やビジョンの多様性を容認し、全体として真理の方向へベクトルを向けることこそがリーダーの真の役割である。これは自らという多様な感情や特質を内在するミクロコスモスの中で、一つの根源を模索する誠の道を目指していく営みと同じなのである。
今後の研修のなかで、常にこの人間道を意識し、誠の道を歩んでいけるように研鑽に励みたい。
<参考文献>
小林勝人(訳注)「孟子」(下)岩波文庫:2004年
松下幸之助「人間を考える」PHP文庫:2003年
松下幸之助「松下幸之助の哲学」 PHP研究所:2002年
安岡正篤 「孟子」PHP文庫:2005年
http://www.bansuisou.org/event/dendou/uchuu.html 【宇 宙(ウチュウ)】より
結社理念
主張=「宇宙」即ちコスモスである。
即ち秩序と調和である。無限の可能性と有限の理性を失わない俳句を志す集団。
「宇宙」には夢があり明日がある。
主宰者
宇宙主宰 島村 正 島村 正(シマムラ タダシ) 昭和18年8月20日静岡に生まれる。
昭和39年「七曜」堀内薫に師事。のちに七曜賞受賞。昭和42年「天狼」山口誓子に師事。のちにコロナ賞受賞。
平成5年「宇宙」創刊主宰。
【句集】
『母港』『一條』『燈台』『天地』『歳華悠悠』『自註島村正集』『無双』『有情』『未來』『永却』『冠雪」『富士』『伊勢』
【評論集】
『誓子山脈の人々』など。
この間に誓子選の<海上に富士より高き雲の峯>の一句が、のちに朝日俳壇、「入選句でたどる戦後半世紀」27句の一句に選ばれる。
掲載の百句は、第六句集『無双』(文學の森)より
主宰の100句
1 土用波きのふの海に立ちあがる
2 八方に広がる富士の花野かな
3 花野にて少しく妣(はは)と遊びけり
4 雪富士の真上に月のブーメラン
5 勝独楽の身に覚えなき瑕瑾かな
6 少年の深き一礼寒稽古
7 寒垢離の光背として虹かかる
8 をちこちを耕す富士の裾野かな
9 きさらぎの星空の星みな潤む
10 春泥の道より他に道はなし
11 滴りは巌の涙かも知れず
12 海上に一舟もなき良夜かな
13 穭田の条理植田と異ならず
14 揺さぶって松葉を落とす松手入
15 伏兵は身辺にあり鴨の陣
16 十年に一度の決意ふところ手
17 骰子に赤き賽の目大旦
18 鴨のこゑ蘆荻(ろてき)の風にかき消さる
19 きさらぎの雨夜の星が誓子星
20 初蟬のこゑを歓声とぞ思ふ
21 蟬しぐれ蟬に懶惰の声はなし
22 滝口に水の雄叫び落ちて来る
23 十指もて硯の海と山洗ふ
24 台風一過蒼天に瑕瑾なし
25 神島は沖にしぐるるばかりなる
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26 寒星は漁り火よりも遠からず
27 一寸の幸一寸の福寿草
28 具の中に媚薬の混じる闇汁会
29 白梅に応へ紅梅ほころびる
30 御佛に額づく寺の臥竜梅
31 雛の日の雛の全き微笑かな
32 鳥雲に乞丐(かたい)となるもいとはざる
33 どこまでもつづく汀線明易し
34 洗眼に洗心によき谷若葉
35 しんねこの闇に螢が火を点す
36 宣誓のごと初蟬の声がする
37 期せずして咲く紅白の蓮の花
38 濁流が濁流を押す出水川
39 飛魚が飛ぶ円盤の海の上
40 夕立のあと蟬声の火急なる
41 暦日のなき山中に厄日かな
42 何時も案山子は遠を見晴るかす
43 すがれずに徒花となる曼珠沙華
44 盤石のごと藁塚の動かざる
45 北窓を塞ぎこころの窓ふさぐ
46 白鳥の未だ日本の汚れなし
47 毛衣の美女に野獣が口説かるる
48 初富士の八百八沢雪の富士
49 雲上に聳然として雪の富士
50 阿羅漢の黙寒鯉にのり移る
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51 遠山はさて菩提寺の山笑ふ
52 紅白の梅を二親として仰ぐ
53 一対のもの雛壇にかく多し
54 払暁の星天仰ぐ誓子の忌
55 海舟の庵に維新の松の芯
56 禅寺に石庭の海明易し
57 瀨頭の鮎を瀬踏みに釣り上げる
58 濡れ色の火を点したる初螢
59 就中熊蟬のこゑ火急なる
60 炎天に孤立無援のひと強し
61 帰省子の日がな惰眠をむさぼれり
62 蓮田の浄土に立てる雲の峯
63 青天の霹靂といふ厄日かな
64 緩急に水平に飛ぶ赤蜻蛉
65 優遊と飛ぶ先達の草の絮
66 穭田の稲穂はなべて粃(しいな)なる
67 峙ちて雲表をつく雪の富士
68 泰西の名画にもなき雪の富士
69 未明より的皪として雪の富士
70 さきがけて暁光を浴ぶ雪の富士
71 日の本の国に無双の雪の富士
72 一点の暖色もなき雪景色
73 遺跡野の精さみどりの蕗の薹
74 出遅れしことに臆せず蕗の薹
75 配剤として紅白の落椿
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76 極星の永久の輝き誓子の忌
77 天下人さながら城の花を愛づ
78 晶々として長汀の明易し
79 新世紀前に卯波のたちあがる
80 肌色の水着素肌と見紛へり
81 あかときに咲く発心の蓮の花
82 転覆の訓練もする舟遊び
83 千年の時空を超えて滴れり
84 はらわたのなきかなかなのこゑすずし
85 集落の要の寺に小鳥来る
86 霊山の霊気の宿る月夜茸
87 流れ星身丈に余る軌跡かな
88 船檣の高きに海の虎落笛
89 寒暁の富士より後光差し始む
90 ちちははの如し二輪の返り花
91 一年の掉尾を飾る雪の富士
92 彩雲のかかる大富士大旦
93 遠目にも夜目にも白き雪の富士
94 帆船は洋上の華年迎ふ
95 北斎の富士に寒濤たちあがる
96 内濠はさて外濠の水温む
97 終息に近づく芝火とぞ思ふ
98 雪富士を光背として雛飾る
99 誓子忌に百景一の雪の富士
100 青富士に点睛として雪残る