奥の細道とはて知らずの記
https://ameblo.jp/haikunosato/entry-12710375409.html 【芭蕉と子規(27)】より
奥の細道(14)
元禄2年(1689年)3月27日(新暦5月16日)に江戸の千住を旅立った芭蕉らの「奥の細道」の旅は、約4か月半をかけて最終地の美濃(岐阜)大垣に辿り着くこととなった。その間、江戸から東北道を北上して陸奥(宮城)松島から(岩手)平泉へ、そして奥羽山脈を西へ横断して最上川を下り、出羽(山形)酒田から北上して(秋田)象潟まで行き、今度は南下して越後(新潟)、越中(富山)、加賀(石川)、越前(福井)を経由して美濃(岐阜)に入った。江戸から同行した曾良は、体調を崩したため加賀の山中温泉で別れて伊勢へ向かい、代わりに北枝が越前まで同行した。その後、北枝とは越前の天竜寺で別れ、芭蕉は一人で永平寺から福井を訪れた。
芭蕉は8月6日曾良と別れた後、加賀の曹洞宗全昌寺に宿泊し、翌7日加賀と越前との国境にある吉崎の汐越の松を、さらに越前の曹洞宗天竜寺を訪れた。ここで金沢から同行した北枝と別れ、曹洞宗の総本山である永平寺を訪れた。その後、福井の俳人で旧知の等裁(神戸洞哉)宅をようやくにして尋ねて当ててここに二泊した。そして名月を敦賀で鑑賞するため等裁と共に旅立ち、湯尾峠を越えて14日の夕刻に敦賀に到着した。この夜は月がきれいに見えたが、宿屋の主人に聞くと明日の夜は雨で名月は観られないとのことで、この夜「けいの明神」(気比神社)を参詣した。
翌15日は雨で月は観られず、翌16日、西行の歌に詠まれた「ますほの小貝」を拾うため種の浜へ舟で行き、ここで夕暮れの浜の寂しさを堪能した。敦賀では門人の露通が近江の大津から出迎えに来てくれ美濃へ同行した。馬で8月20日頃に大垣に入ると、9月3日に曾良が伊勢より来た。また門人の越人が尾張から来て門人の如行の家に集まった。その他、前川、荊口父子など親しい人々が集まり芭蕉との再会を喜び合った。9月6日朝、芭蕉らは伊勢神宮の式年遷宮を参詣するため舟に乗り出立し、夕方伊勢長島町に到着して長禅寺に投宿した。ここで3泊した後伊勢へ向かった。伊勢神宮の式年遷宮は20年ごとに行われ、元禄2年がその年にあたり、内宮は9月10日、外宮は同13日に行われた。芭蕉は内宮の式には間に合わず、外宮の式を拝した。
ところで、「奥の細道」にある歌枕について、「あさむづの橋」は福井市浅水川にかかる橋で、「朝むずの 橋はしのびて わたれども とどろとどろと なるぞわびしき」、「玉江の蘆」は福井市花堂の虚空蔵川にある橋で、「夏かりの 玉江の蘆を ふみしだき むれ居る鳥の たつ空ぞなき」、「鶯の関」は福井県南越前町湯尾にあり、「鶯の 啼つる声に しきられて 行もやられぬ 関の原哉」、「かへるやま(帰山)」は、南越前町湯尾にあり、「たちわたる 霞へだてて 帰る山 来てもとまらぬ 春のかりがね」、「雁がねの 花飛びこえて かへる山 霞もみねに のぼるもの哉」など。また、「ますほの小貝」の西行が詠んだ歌は、「潮染むる ますうの小貝 拾ふとて 色の浜とは いふにやあるらん」。
『福井は三里ばかりなれば、夕飯したためて出づるに、たそがれの路たどたどし。ここに等栽と云ふ古き隠士有り。いづれの年にか、江戸に来たりて予を尋ぬ。遥か十とせ余りなり。いかに老いさらぼひて有るにや、はた死にけるにやと人に尋ねはべれば、いまだ存命してそこそこと教ゆ。市中ひそかに引き入りて、あやしの小家に夕顔へちまのはえかかりて、鶏頭、ははき木に戸ぼそをかくす、さてはこのうちにこそと門を扣けば、侘しげなる女の出でて、いづくよりわたりたまふ道心の御坊にや、あるじはこのあたり何がしと云ふものの方に行きぬ。もし用あらば尋ねたまへといふ。かれが妻なるべしとしらる。むかし物がたりにこそ、かかる風情ははべれと、やがて尋ねあひて、その家に二夜とまりて、名月はつるがのみなとにと、たび立つ。等栽も共に送らんと裾おかしうからげて、路の枝折とうかれ立つ。ようよう、白根が嶽かくれて、比那が嵩あらはる。あさむつの橋をわたりて、玉江の蘆は穂に出でにけり。鴬の関を過ぎて湯尾峠を越ゆれば、燧が城、かへるやまに初雁を聞きて、十四日の夕ぐれ、つるがの津に宿をもとむ。その夜、月殊に晴れたり。あすの夜もかくあるべきにやといへば、越路の習ひ猶明夜の陰晴はかりがたしと、あるじに酒すすめられて、けいの明神に夜参す。仲哀天皇の御廟なり。社頭神さびて松の木の間に月のもり入りたる、おまへの白砂、霜を敷けるがごとし。往昔、遊行二世の上人、大願発起の事ありて、みづから草を刈り、土石を荷ひ、泥渟をかはかせて、参詣往来の煩なし。古例、今にたえず、神前に真砂を荷ひたまふ。これを遊行の砂持と申しはべると、亭主のかたりける。
月清し 遊行のもてる 砂の上
十五日、亭主の詞にたがはず、雨降る。
名月や 北国日和 定めなき
十六日、空晴れたれば、ますほの小貝ひろはんと、種の浜に舟を走らす、海上七里あり。天屋何某と云ふもの、破籠、小竹筒などこまやかにしたためさせ、しもべあまた舟にとりのせて、追風時のまに吹き着きぬ。浜はわづかなる海士の小家にて、侘しき法花寺あり。ここに茶を飲み、酒をあたためて、夕ぐれのさびしさ感に堪へたり。
寂しさや 須磨にかちたる 浜の秋
波の間や 小貝にまじる 萩の塵
その日のあらまし、等栽に筆をとらせて寺に残す。露通もこのみなとまで出でむかひて、みのの国へと伴ふ。駒にたすけられて、大垣の庄に入れば、曽良も伊勢より来たり合ひ、越人も馬をとばせて、如行が家に入り集まる。前川子、荊口父子、その外、したしき人々日夜とぶらひて、蘇生のものにあふがごとく、かつ悦び、かついたはる。旅の物うさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんとまた舟にのりて、
蛤の ふたみにわかれ 行く秋ぞ 』 (了)
https://ameblo.jp/haikunosato/entry-12710529054.html 【芭蕉と子規(28)】より
はて知らずの記(14)
明治26年(1893年)7月19日に東京の上野を汽車で出発した、芭蕉の「奥の細道」の足跡を辿る子規の「はて知らず」の旅は、いよいよ最終章となった。芭蕉がその景色に感動した象潟を子規は訪れたが、文化元年(1804年)の大地震で風光明媚な風景は一変してしまっており、非常に落胆した。その後、芭蕉が南下して越後(新潟)方面へ向かったのとは異なり、秋田を北上して8月13日に八郎潟を訪れてその風景を楽しんだ。それから秋田へ戻った後、南下して大曲、横手へ出て、ここから東方へと向きを変え16日の夕刻に湯田温泉に到着ここで宿泊した。
17日に湯田温泉を出立し和賀川に沿って東方へ下り、杉名畑(錦秋湖付近)を経由して北上川との合流地点の北上市黒沢尻に到着、ここに宿泊した。18日(陰暦7月7日)は七夕だったが、暴風雨でそのまま宿に滞在し、翌19日午後に汽車で水沢で途中下車して公園を散策、夜汽車で東京上野へ向かった。翌20日、白河の関で夜明けとなり、正午に上野駅に到着した。上野駅を旅立って1ヶ月余で子規の芭蕉の「奥の細道」の足跡を辿る「はて知らずの旅」はここに終わりを告げた。
子規は「はて知らずの記」の最後に、「秋風や 旅の浮世の はてしらず」の句を詠んだが、これは芭蕉の「奥の細道」の冒頭文である「・・・古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて漂泊の思ひやまず・・・」を意識しての、芭蕉に対する感謝やお礼の言葉とも言えよう。
この紀行文は、「日本新聞」に明治26年7月23日から9月10日まで、21回にわたって連載されたが、7月19日に上野を旅立ってわずか4日後には新聞に連載されるというのは、当時の通信事情を考えれば驚くべきことである。また、最後の文章に、「・・・はてしらずの記、こゝに尽きたりとも、誰れか我旅の果を知る者あらんや。」との読者への問いかけは、子規のこの「はて知らずの旅」の意気込みの大きさというか若さからの自負心というものが感じられるようだ。
『十七日の朝は、枕上の塒の中より声高かく明けはじめぬ。半ば腕車の力を借りてひたすらに和賀川に従ふて下る。こゝより杉名畑に至る六、七里の間、山迫りて河急に樹緑にして水青し。風光絶佳、雅趣掬すべく誠に近国無比の勝地なり。三里一直線の坦途を一走りに黒沢尻に達す。家々の檐端には皆七夕竹を立つ。此日陰暦七月六日なり。
十八日、旅宿に留まる。けふは七夕といふに風雨烈しく吹きすさみて天地惨憺たり。
十九日、曇天。小雨折り折り来る。
秋の蠅 二尺のうちを 立ち去らず
午後の汽車にて水沢に赴く。当地公園は、町の南端にあり。青森、仙台間第一の公園なりとぞ。桜梅桃梨雑木を栽う。夜汽車に乗りて東京に向ふ。
背に吹くや 五十四郡の 秋の風
二十日は白河の関にて車窓より明け行く。小雨猶やまず。正午上野着。
みちのくを 出てにぎはしや 江戸の秋
わが旅中を憶ふとて、
秋やいかに 五十四郡の 芋の味 (鳴雪)
帰庵を祝ふとて、
白河や 秋をうしろに 帰る人 (松宇)
始めよりはてしらずの記と題す。必ずしも海に入り、天に上るの覚期にも非らず。三十日の旅路恙なく、八郎潟を果として帰る目あては終に東都の一草庵をはなれず。人生は固よりはてしらずなる世の中に、はてしらずの記を作りて今は其はてを告ぐ。はてありとて喜ぶべきにもあらず。はてしらずとて悲むべきにもあらず。無窮時の間に暫らく我一生を限り、我一生の間に暫らく此一紀行を限り、冠らすにはてしらずの名を以てす。はてしらずの記、こゝに尽きたりとも、誰れか我旅の果を知る者あらんや。
秋風や 旅の浮世の はてしらず 』 (了)