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心と言葉の迷宮

2022.11.19 07:44

https://www.u-tokyo.ac.jp/biblioplaza/ja/B_00067.html【人文知1 心と言葉の迷宮】より

著者名 唐沢 かおり (編)、 林 徹 (編) 出版社 東京大学出版会

私たちは、自分自身がなにものであるかを問う。他者がどのような存在であるのか知り、つながり、反発する。過去を振り返り、文化を創造し、未来を構想する。人文知とは、その営みを覆う世界を読み解き、再構築していくことで生み出される知である。

人文知の中でも、心と言葉をめぐる問題は、私たちを人として成り立たせ、世界の再構築の出発点となることがらを対象とする点において、基本的で重要な位置づけを持つものだ。自他を高度に理解する心を持ち、言葉を操ることは、人間を他の存在から区別する本質的な属性のひとつだろう。心があるから、私たちは他者とつながり、世界を理解し、文学や芸術に感動することができる。言葉があるから、他者と世界を共有し、感動を伝え、未来に向けての構想を作ることができる。心と言葉は、私たちが世界とかかわり、創造的な営みを行うための、大切な「道具」なのである。

しかし、心と言葉をめぐる問いに答えるのは簡単なことではない。それらが紡ぎだす世界は、その豊かさと複雑さゆえに、正体を見極めることが難しい。本書のタイトルにあるように、迷宮をさまようかのようだ。少し光が見えたかと思うと、落とし穴にはまり、また、道がいきなり左右に分かれ、もとの問いすら見失うかのような、明確な答えのない場である。

それでも、心と言葉の迷宮はさまように価する場所だろう。複雑な迷路の中に見えてくるものは、人間とは何かという根源的な問いに関する洞察だから、そして、心と言葉ゆえに、私たちは、世界を混沌から有意味なものへと変換できるから。

本書は、そのような問いに取り組んできた研究の成果を、わかりやすく論じたものだ。「心理学」や「言語学」、「文学」といった心や言葉を直接の研究対象としているものだけではなく、哲学、美学、美術史学、社会学といった領域においても、心と言葉は探究の中核にある。各章は、これら人文学の多様な領域で、自らの「心と言葉」をもって思索を重ねてきた著者たちが提示する迷宮の見取り図である。その見取り図を手がかりに、読者は迷宮の中に導かれ、さまよい、世界を自らの心と言葉を持って読み解くだろう。

なお、本書は全三巻からなる「シリーズ人文知」の第一巻でもある。シリーズは、第二巻「死者との対話」、第三巻「境界と交流」へと続いていく。「死者との対話」では、過去と未来をつなぐ人文知の姿を提示する。私たち以前に生きた人々、すなわち「死者」の声を聞くことで、その末裔として、そして過去と未来との中継点としての私たちを再発見するだろう。「境界と交流」では、自と他の葛藤と融合の歴史を解き明かすことにより、他者との交流により成り立つ「私」を見出すだろう。かくして、心と言葉の迷宮から抜け出し、「私」は時間と空間を超えて広がる人文知の世界へと導かれることになる。あわせて読んでいただければ幸いである。

(紹介文執筆者: 人文社会系研究科・文学部 教授 唐沢 かおり / 2016)

本の目次

序 心と言葉への問い -- 言葉を心につなぐもの (林 徹 / 言語学)

I 問題の原型

 1 心はいかに自己と他者をつなぐのか (唐沢かおり / 社会心理学)

 2 心・言語・文法 -- 認知言語学の視点 (西村義樹 / 言語学)

 3 心が先か言葉が先かの対立を終わらせる一つのやり方について (戸田山和久 / 科学哲学)

II 問題の展開

 4 こと・こころ・ことば -- 現実をことばにする「視点」(木村英樹 / 中国語学)

 5 言葉によってどのように「心」が表現されるのか (渡部泰明 / 日本文学)

 6 ことばは社会と文化をどのようにつくり変えるのか -- 社会問題の構築(赤川 学 / 社会学)

III 問題の拡大

 7 イメージ / 絵画は「心」の交感の場 (小佐野重利/美術史学)

 8 音楽はどのように言葉や図像とかかわるのか -- ベートーヴェン《月光》をめぐるマルチメディア的想像力 (渡辺 裕 / 美学芸術学)

 9 古代中国人の言語風景 -- 空間と存在の関わり (大西克也 / 中国語学)

あとがき (唐沢かおり)

https://yumenavi.info/lecture.aspx?GNKCD=g002352 【脳の不思議】より

あなたは右脳派? 左脳派?

 人の性格を表すのに「右脳派」、「左脳派」という言葉を使うことがあります。これは脳のはたらきが右左で違うことに注目して考えられた一種の性格判断です。

 一般的に右脳派は、直感力や感性が豊かな芸術家タイプで、左脳派は、論理的思考や計算など分析能力に優れた学者タイプであると言われています。

 ではここで、あなたが右脳派か左脳派かを判定するテストをしてみましょう。まず左右の手の指を組んでみてください。もし右親指が左親指の下にきたら右脳派、その反対であれば左脳派とされています。どうでしたか? 自分の意外な面を発見できて楽しいでしょう。ただこのテスト、残念ながら、はっきりとした根拠がないものなのです。

右は空間認識、左は言語

 右脳を右半球、左脳を左半球と言いますが、どちらも持っている機能はほぼ同じです。ただ右半球、左半球は、それぞれ得意分野を持っています。例えば右半球は空間認識、図形認識、音楽的能力といった分野に優れており、左半球は言語機能、計算能力が優れています。また脳は、右半球、左半球それぞれが受けとった情報を、脳梁(のうりょう)と呼ばれる部位で反対側に伝えるといったこともしています。

 右半球、左半球が、どのような機能に優れているかは、脳梗塞などで脳がダメージを受けた場合によくわかります。例えば言語機能に優れた左半球にダメージを受けると話す、聴いて理解する、読む、書くことができなくなる言語障がいになり、音楽的能力に優れた右半球にダメージを受けると、歌が歌えなくなる失音楽という障がいになります。また右半球は空間認識が優れているので、左側の認識ができなくなる左半側空間無視という障がいが起きてしまいます。

 脳に対する研究は日夜進んでいますが、非常に奥深く、実はまだまだ解明し尽くされていません。それだけ研究の余地が残されている面白い分野です。

https://www.zen-essay.com/entry/huryuumonji 【【禅語】 不立文字 ~文字で真理は悟れない~】より

禅の教義を端的にあらわす禅語として、不立文字(ふりゅうもんじ)という有名な言葉がある。

「文字を立てない」と読むことができるが、字義からすれば「文字で真理を説くことはできない」「文字のなかに真理はない」と読むことができるだろう。

ただ、そう言ってしまうと文字の軽視と受け取られるかもしれないが、全面的に文字を否定しているわけでは決してない。

不立文字とは「言葉にとらわれるな」「経典のなかに悟りの答えがあると思うな」と解釈すべきもので、要するにブッダの坐禅を自らも行うことを求める、実体験を重視せよという言葉である。

そんな不立文字を標榜する禅・曹洞宗の開祖である道元禅師は、『正法眼蔵』という一大書物を文字で書き著している。

『正法眼蔵』は20年以上もの長きにわたる歳月をかけて書き著わされた、曹洞禅の集大成のような書物である。

分類の仕方によって75巻、95巻など種々あるが、どちらにしてもその量は膨大なものにのぼる。

また道元禅師は、禅の境地を詠んだ多くの道歌も残している。

しかもそれらは文学的にとても美しい。

文字に真理はないとしながらも、文字を書き連ねてきたのはなぜなのか。

文字とは何なのか。

これは昔から現代にいたるまで変わらずに、禅の根幹を問う重要な問いとなっている。

不立文字とは、文字を軽視することとは違う。

文字が非常に有意義なものであることを知った上で、しかし文字に頼りきるな、必ず自らの体でもって体験するのでなければ本当に知ることなどできないのだと説く言葉である。文字を認め、文字の不完全さも認めた言葉なのだ。

この不立文字という言葉を考える上で非常に参考になる逸話があるのでぜひともご紹介したい。

1965年にノーベル物理学賞を受賞したアメリカの物理学者、ファインマンの幼少時代の逸話である。

ファインマンの逸話

ファインマンはノーベル物理学賞を受賞したくらいなのだからさぞかし頭の良い人物なのだろうが、意外なことに子どもの頃は同年代の子たちから「頭の悪い子」と言われていたという。

なぜそう言われていたのかというと、ファインマンはいろいろな物の名前を知らなかったのだ。

しかしそれには訳があって、じつは父親があえて名前を教えなかったという事情がある。

なぜ父親はものの名前を教えなかったのか。

……なぜ文字を立てなかったのか。

ファインマンの父親は、もし自分に男の子が生まれてきたら、息子を科学者にしたいと考えていた。

だから生まれてきた男の子のファインマンをとても可愛がり、休みの日には親子でよく森に遊びに行った。

しかし父親はただ森で遊ぶのではなく、なるべく自然科学の面白さを伝えようと考えた。

たとえば、こんなふうに。

「ちょっとこっちに来て、あそこの木の枝にとまっている鳥を見てみなさい。

あの鳥の名前は、アメリカでは〇〇と呼んでいる。

けれども国が違えば名前なんてものはいくらでも変わってしまう。

それぞれの言語で呼ばれるだけだ。

だから名前なんてものをいくら覚えたって大した役には立たない。

それよりも、あの鳥が何をしているかをよく見ようじゃないか」

そこでファインマンは鳥をじっと観察した。

すると鳥は、ときどき思い出したかのように自分の羽をくちばしでつついていた。

しかし幼いファインマンはそれが何を意味する行動なのかという知識は持ち合わせていない。

「お父さん、あの鳥はさっきから羽をくちばしでつついているよ」

「確かにつついているな。何をしているのだと思う?」

「うーん」

答えを知らないファインマンは考えるしかなかった。

「空を飛んできたから、羽がグチャグチャになったのかなあ」

「なるほど、ありえるな。もしそれが正しいとしたら、長い時間枝にとまっている鳥はもう羽を整え終わっているはずだから、羽をつつくことはないはずだ」

そこで親子は長く枝にとまっている鳥を観察した。

すると、じっと休んでいるような鳥も、時折くちばしで羽をつついていた。

「ずっとつついているということは、羽を整えてるんじゃあないのもしれんなぁ」

「うーん、じゃあ、羽の中にいる虫を食べてるとか?」

「なるほど、ありえるな。でもそれはここから観察していても確認できないから、家に帰って鳥類学の本を読んでみるしかないな」

「じゃあ帰ったら調べてみよっと」

そして親子は家に帰ると、本で鳥の行動を調べた。

ファインマンは父親の助言を受けて、まずよく観察し、観察に基づいて仮説を立て、仮説が正しいか検証し、確かめきれないことは先人の見識を紐解いて確認するという体験を深めていった。

こうしてファインマンは科学的思考を身につけていったのだが、名前を覚えるというような勉強はしなかったのである。

ファインマンはこのような幼少時代を過ごし、鳥の名前も知らないバカな子どもと言われながら優れた科学者に成長していった。

これは記憶重視型の授業を展開する日本の教育界に、痛烈な一撃を見舞うエピソードと言えるのではないだろうか。

ちなみに、鳥が羽を繕うのは、いつでもすぐに飛び立つことができるようにするための準備と考えられている。

もし他の動物に襲われそうになり緊急に飛び立つ必要が出た際、ゴミや乱れがあって飛ぶことの邪魔になったら命に関わる失態である。

だから鳥は手入れを欠かさないのだと。

ファインマンも、鳥類学の本を父親と一緒に読んで先人の見解を知っただろうか。

知る、とは何か

成長の過程で名前なんてものはいくらでも覚える。

ファインマンだって特に意識せずとも、やがては名前を覚えたはずである。

しかし本当に重要な「考え方」や「学び方」というものは、子ども一人の力ではなかなか身につかない。

いや、大人だって身につけようと考えない限りは身につかないだろう。

父親が息子に伝えたかったものは、文字にとらわれることなく真実を見抜いていく、正しいものの考え方のほうであった。

それは禅が標榜する不立文字の考え方とよく似ている。

我々は、たとえば禅という概念を知りたいと思ったとき、それについて書かれた本を読もうとする。

あるいはそれについて語れる人の言葉を聞こうとする。

しかしそこで知ることができるのは、結局のところ文字による情報でしかない。

もし水泳を知りたいと思って、水泳について書かれた本を読む人がいるだろうか。

登山を知りたいと思って、登山を題材にした小説を読んで満足できるだろうか。

それを知りたいと思えば、必ずそれを自分自身で体験しようと思うはずだ。

そうでなければ、人はそれについて何も知ることはできないからである。

しかしこの単純な事実も、対象が「概念」となるとなかなか体験でそれを知ろうとは思わなくなる。

ここに「知る」ことの落とし穴がある。

私たちは往々にして情報として知っただけで満足し、あたかもそれを体験したかのごとくに知った気になることがある。

しかしそれは重大な誤りなのだ。

知るとは、体験を通して自分自身の体で知ることでなければ偽ものであるというのが禅の基本的立場である。

それが不立文字という禅語が指し示す一面でもある。

しかし、このことを説明するには文字に頼らなければいけない。

ファインマンも、わからないことは本を読んで学んでいた。

文字が有用であることも、文字が不完全であることも認める。

認めた上で、文字を超えていこうとする。

それが不立文字という禅語の意味である。

ファインマンの幼少時代の逸話は、現代の記憶偏重の詰め込み教育に対する軽妙な皮肉のようにも感じられる。

あるいは、学習の本質にある「問うことの大切さ」を示唆した話とも受け取れる。

つまり頭が良いとは何なのかという話。

少なくとも名詞を記憶することが学習なのではないと考えたファインマンの父親に、多大な共感を覚える人はきっと大勢いることだろう。