「道」は、天地の奥にある無形の力、造化のエネルギータオ
https://ameblo.jp/hansyouteikaichou/entry-10394388220.html 【老子 ①】より
「老子」は有名な中国の古典ですが、大変に不思議な本です。その魅力に取りつかれ、ずいぶんと長いつきあいになります。
「老子」の面白さのひとつとして、多面的な読み方ができることがあげられます。万物の根源に存在する「道」を説くところから、哲学・現代思想、宗教・スピリチュアル、物理学・ニューサイエンスなどの視点からの解読も面白いですが、一方、人生・処世術の書として、自己啓発・経営・政治の視点からの解読も多くなされています。また、いたるところに格言や箴言がちりばめており、文学の書として堪能することもできます。
しかし、いろいろな解釈があるので、どれが本当に正しい解釈なのかよくわかりません。もしかしたら正しい解釈なんてないのかもしれません。ここでは、今の自分にとって納得できそうな解釈を語らせていただきますね。
では、今日から3回シリーズで「老子」の言葉を紹介していきたいと思います。
功遂げて身退くは、天の道なり(第9章)
「仕事をなし遂げたら身を退くのが天の道である。」
功名を遂げると、その栄誉ある地位に執着し退くことが難しくなるのも人間です。政治家や経営者の例はよくあげられますが、若手の落語家も高齢の師匠たちに対して、この言葉を心の中で叫んでいるのかもしれませんね。
大道廃れて、仁義あり(第18章)
「大いなる道が廃れだしてから、仁義が説かれるようになった。」
太古には無為自然の「道」が行われていたが、その大道が廃れ人心が荒廃してくると、仁義の教えによって人々を規制するようになったということですが、現代社会は、仁義すら廃れ法律で規制している有様です。
すると「落語」ブームなんてものになるとしたら、家庭や職場で笑いが少なくなったからでしょうか。
上善は水のごとし(第8章)
「最上の善なるあり方は、水のようなものだ。」
水は、万物に利益を与えながら、けっして他と争いません。相手しだいで、いかようにも対応できる柔軟性、低きへと流れていく謙虚さを身につけるのが、最も理想的な生き方であることを説いています。水のように臨機応変に流れるような芸を身につけていけたらいいですね。
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「老子」の説は、無心・無欲・柔軟・謙虚・質朴・控えめなどが重視されるので、消極的で禁欲的なイメージをもってしまいがちです。
しかし、せせらぎは静かな流れですが、支流は流れの早い川へ続き、やがて海へと流れていくように、水には偉大なエネルギーが秘められています。「老子」から、自由にのびのびとしたパワーあふれる生命力を与えてもらいましょう。
「老子」からのパワーに遠慮なんかしていると・・・
水くさい! m(_ _ )m
https://ameblo.jp/hansyouteikaichou/entry-10395239510.html 【老子 ②】より
今日は「老子」3回シリーズの第2回目です。
大国を治るは、小鮮を煮るがごとし(第60章)
「大国を治めるのは、小魚を煮るようにすること。」
小魚を煮るときは、むやみに突いたり、掻き回したりしない方が上手くいきますね。現代では、あまりにも重箱の隅をつつくようなことが多すぎます。子どもの教育だって過干渉はよくありません。
落語の稽古も、一度にたくさん指摘されたり直されたりしたら、萎縮してヤル気をなくしてしまいます。
学を絶てば憂いなし(第20章)
「学ぶことをやめれば、憂いがなくなる。」
勉強嫌いの子が聞いたら喜びそうな言葉ですね。文字どおり学ばないというより、小賢しい思慮分別による知識へのとらわれの危険性を指摘したものと思われます。小賢しさに溺れない「素朴」な状態を老子は理想としています。
小賢しい落語家の噺なんて、聞きたくありません。 (。・ε・。)
その身を後にして身は先んじ、
その身を外にして身は存す(第7章)
「聖人は、わが身を後まわしにしながら、かえって民の先となり、わが身を度外視しながら、かえってその身を保全する。」
天地の心を体した聖人は、天と地のように無私に徹することで、かえって人々から慕われ、その地位も安泰になるということです。先頭を走っていると風当たりも強く息切れもします。一歩、二歩退いてマイペースで走った方が、最終コースで全力疾走できるかもしれませんね。
落語家も、二つ目があまりにも早く真打ち昇進すると、風当たりも強くやりにくいようです。
その光を和らげ、その塵に同ず(第4章)
「知恵の光を和らげ、世の中の人々に同化する。」
「和光同塵」の教えです。持てる才能を表にあらわさず、世俗の塵にまみえながらも、けっして溺れず、自然と感化していくことです。何か得意なことや才能があると鼻にかけ、まわりの人たちの意識の低さをバカにしたくなりがちです。そこが人間の器がどうなるかの分かれ目でしょうね。自分を高みに置くと低くなり、自分を低みに置くと高くなるという逆説を理解できるのが、本当の大人なのかもしれません。
落語こそ、まさに「和光同塵」の世界そのものではないでしょうか。
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「和光同塵」、大切な教えですね。
ちょっとした知識を鼻にかけるのはよくありません。
知らないふりをしたほうが好感がもたれます。
世俗の塵にまじわらないで、知ったかぶりしていると・・・
ちりとてちん! m(_ _ )m
https://ameblo.jp/hansyouteikaichou/entry-10396081523.html 【老子 ③】より
今日は「老子」3回シリーズの最終回です。
道の道とすべきは、常の道に非ず(第1章)
「これが道ですと示せるような道は、恒常の道ではない。」
前半の「道」は、日常的に使われる道理としての「道」であり、後半の「道」は、老子哲学の根本概念で、宇宙の根源的な実在であり理法である「道」のことです。ようするに、これこそが理想的な「道」だといって人に示すことのできるような「道」は、恒久不変の「道」ではないと説いているのです。
第1章の冒頭から、いきなり難しい「道」の話になるので、はじめは、ここで本を放り投げたくなります。この章が理解できたら後は、スラスラ読めるようなこともいわれますが、ここで立ち止まってしまいます。
老子の「道」は、見えもせず聞こえもせず、とらえどころがなく、したがって名づけようもないものです。そこで「無」とか「無名」とかよばれたりします。それが宇宙の根源として、また、天地万物を生み出す始源として、大きな働きをとげているのです。「道」は、天地の奥にある無形の力、造化のエネルギーともいうべきものだといえそうです。
では、「道」をどうしたら体得できるのでしょうか。
虚を致すこと極まれば、静を守ること篤し(第16章)
「心をできるかぎり空虚にして、しっかりと静かな気持ちを守っていく。」
自分の心の中をからっぽにすれば、常に安らいだ静かな心でいられることでしょう。心の中の古いコップの水を捨てないと、新鮮な水は注げませんね。
老子は、復帰ということの重要性も力説します。根から芽生えた草木が成長し繁茂して、やがて枯死した後、また根に帰るように、万物は、さかんに生成の活動しながら、それぞれ根元に復帰するのです。いのちの根源である「道」に帰り、また、新たに生成するダイナミックな「循環の思想」があります。
「道」は、11月15日のブログ(宇宙と私)で紹介した目に見えない「いのちの働き」と同じようなものだと考えると理解しやすいかもしれません。無名の「いのちの働き」が造化のエネルギーとして、あらゆるものを生成化育していきます。天と地をつくった「いのちの働き」が、私を私にしてくれます。
「道」は英語やフランス語だと「TAO」と表記されますので、最近では、「タオ」と表現されることが多いようです。
『タオにつながれば、いのちのエネルギーが満ちてくる タオにつながれば、自分の悩みが小さくなる タオにつながれば、無邪気になってうれしくなる タオにつながれば、すべてのことが味わい深くなる』こんなふうに受けとめてしまえば、タオがとても身近になるかもしれません。
いったい「老子」と落語は、どのような関係があるのでしょうか・・・
タオの働きは、小賢しい思慮分別とは対極にあり、近代的な世界観を超えています。
柔軟性や素朴さを大切にして、人間の愚かさを教えてくれます。
この人間への深いまなざしが、あくせくしている自分の姿を照らし「大人の笑い」を誘ってくれます。
落語のメガネは、実は、タオのメガネでもあったのですね。
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とにかく「老子」は、難しい本です。
読むごとにわからなくなったり、新しい発見をします。
今回は、「老子」について自由に書かせていただきました。
「老子」への道は、まだまだ続きそうです。
「道」って、いったいなんだろう・・・
「道」は、やっぱり「未知」ですね (☆。☆)
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<参考文献>
老子 蜂屋邦夫訳注 岩波文庫
老子 金谷 治 講談社学術文庫
タオ 加島祥造 ちくま文庫
「老子」を読む 楠山春樹 PHP文庫