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俳句の世界制作法ノート

2022.11.19 07:17

https://namdoog.hatenadiary.org/entry/20080530 【俳句の世界制作法ノート(9)】より

 第一は、現代俳句とそれ以前の俳句とを比較してどういうことがわかるか、という論点である。問題はかなり複雑でありいま十分に議論を展開する余裕がないので、一点をあげるにとどめる。〈現代俳句〉における〈写生〉は、二つのものの「対立や衝突ないし相克」を仕掛けて新たらしいものを創発せしめるための言語技法である。(この機能と構造は映像藝術における〈モンタージュ〉と変わるところがない。)

 子規が〈写生〉を唱えたとき、文藝上の自然主義が背景にあった。〈写生〉は、和歌や蕉門の俳諧が風雅の伝統を重んじたのとは異なり、作家個人の目でものを観照することを意味した。例にあげた其角の句は、このかぎりにおいて〈現代俳句〉とは言いがたい作品である。それは一面において新たな美の発見ではあるが、同時に他者の目で事象を視ることだからである。

 とはいえ、この違いを絶対化してはならないだろう。〈現代俳句〉というジャンルは単なる時代区分に基づくものではない。われわれはこの用語を二義的に考えている。最初の意味内容についてはすでに述べた。すなわち、〈現代俳句〉とは、現代日本語を使用して作られた俳句をいう。*1 第二に〈現代俳句〉とは、「対立を媒介することで新たなものを創発する、認識の弁証法」を具現した言語表現としての俳句、を意味している。事実上、明治以降にこの種の俳句が多様な仕方で試みられたと言うことができる。しかしながら、まさに現在おびただし数の俳句が制作され世の中を流通しているが、この種の俳句を「現代俳句」と呼べるだろうか。この問いには、ただちに「呼べはしない」と答えが返ってくるような気がする。*2

  第二の意味での〈現代俳句〉が理想的タイプを言うにすぎないことを銘記すべきだろう。このことは、〈写生〉のモンタージュがふるう切断や否定はいつでもいちはやく相対化されてしまう、ということを意味する。俳句作家は無から表現を制作することはできない。絶対的意味で「私的言語」などはありえない。私はつねに他人が話すように話すしかないのだ――しかしこれは他人の言葉の鸚鵡返しではない。私は他人の制作した表現にいちはやくつねに自分なりの歪みや捻りを加える(無意識の)狡知をもっている。

 第二に、〈写生〉における認識弁証法を現代俳句にかかわる人たちが技法として自覚していた点は重要である。たとえば、〈二物衝撃〉(藤田湘子)、二句一章(大須賀乙字)、〈配合〉、〈取り合わせ〉(山口誓子ほか) などの用語はおおよそ同じ制作技法をいっている。じつはこの技法はすでに芭蕉一門が「ふる・ふらぬの論」として考察の中心に置いていて、技法の名として〈取り合わせ〉が用いられていた。われわれとしても、俳句の技法のこの核心を〈取り合わせ〉と呼びたい。

 前掲の其角の句にはこんなエピソードがある。『去来抄』の記述によれば、去来と凡兆が芭蕉に批評を仰ぎながら俳諧集『猿蓑』を編集していたとき、其角がこの句を江戸から送ってきて、「下五を「冬の月」「霜の月」のどちらにするべきか迷っている」といってきた。ところが、「此木戸」(このきど)という文字が詰まっていたので彼らはそれを「柴戸」(しばのと)と読んでいた。芭蕉は其角の迷いを不審におもいつつ「冬の月」としてこの句を集に採りあげた。その後、芭蕉は句の上五が「此木戸」だと知って「たとえ出版されてしまったとしても、初案のように直して改版せよ」と手紙で申しよこした、というのである。

 芭蕉の訂正を求める語気のはげしさは、「たとひ板出来、五十部・百部摺り立て候とも(…)その書引き破り候て、板改申すべし」という書簡の表現にまざまざと知ることができる。 *3 これを、俳句を選りぬくのに際していかに芭蕉が峻厳であったかを物語るエピソードだというだけでは不十分である。問題は、俳句の技法としての〈取り合わせ〉のまことに微妙で由々しい働きにある。 『猿蓑』に載録する資格を認定された二つの俳句の比較によって、問題の核心をある程度明らかできるかもしれない。

 (4) 柴戸や錠のさされて冬の月

 (5) 此の木戸や錠のさされて冬の月

 (4)から鑑賞者が了解するのは、隠者などが住まうひっそりとした草庵の柴の戸を寒々しく月が照らしている光景である。そこには、いかにも蕉風において好まれた閑寂や侘びの情趣が横溢している。だが(4)の句に〈取り合わせ〉の技法によって得られるはずの認識の発見があるだろうか。この問いには否定的にならざるを得ない。俳句としての格別の破綻があるわけではなく、むしろ巧みな効果をもたらすよい作品かもしれない。しかしながら、この長所がそのままこの句の決定的な欠陥となる。端的にいえば、(4)は凡庸であり、子規なら「月並み」と貶めたような句なのである。

 これに対して(5)は、〈寒空に影を見せる月〉にイメージの新しい連関をつけくわえるのに成功している。冬の夜空に聳え立つ巨大な城門が月の光に照らされている光景。ここから鑑賞者が受け取る情感は、豪放で壮厳な、ピンと背筋がのびるような、宏大で張り詰めた空間性といったものではないだろうか。取り合わせられたものが火花を発してぶつかりあい未知のアマルガムが創発したのである。この事態を認識の形而上学の平面に置きなおして捉えなおすなら、こういうことができる――其角は、記号系を操作して、潜在性から可能性を生成させることに首尾を遂げたのだ、と。 (つづく)

*1:この論考の2頁。

*2:桑原武夫は、俳句は藝術にあらずという主旨の論文を戦後間もない頃に執筆している。題して「第二芸術――現代俳句について――」(『世界』岩波書店、1946年9月号、所収)という。彼は「現代俳句」をわれわれの用語の最初の意味で使用している。われわれは、桑原の見解の大筋について喜んで同意するものだ。彼のいう「現代俳句」は藝術の営みとは質を異にする記号的実践である。 現代的見地からするなら、それはむしろ「サブカルチャー」の一部にほかならない。詳細な議論は控えざるを得ないが、「現代俳句」にはメディア論の見地からのアプローチが適切である。ちなみに、東浩紀『動物化するポストモダン』(講談社現代新書、2001)が提唱する「ポストモダンの世界像」としての〈データベース・モデル〉が「現代俳句」にはかなりよく適合する。(だがいくつかのポイントを修正しないとダメだが、いまその議論に立ち入る余裕はない。)しかも重要なのは、じつは江戸の俳諧の伝統がやはりこのモデルに多少なりとも適合することであろう。芭蕉の記号学的実践は、サブカルチャーが中心的カルチャーに転化してゆくダイナミズムの事例として考察すべきテーマだとおもえる。日本文学研究にとって、これは重要なテーマになり得るのではないか。芭蕉はある意味で元祖オタクであった。――もちろんこれは象徴的な言い方に過ぎない。俳諧の歴史を顧みればただちに明らかなように、芭蕉以前の相当に長い期間にわたる俳諧史とその流行が芭蕉の誕生をいわば準備したのである。その意味では、時期に応じて、荒木田盛武、山崎宗鑑、松永貞徳、あるいは西鶴など多数の元祖オタクが輩出したというべきであろう。

*3:尾形仂による「去来抄・解説」(白石悌三・尾形仂編『俳句・俳論』(鑑賞・日本古典文学、第33巻)、角川書店、1977、pp.277-281.今日伝存する『猿蓑』板本には「柴戸」を「この木戸」と、その部分だけ無理に訂正した埋め木の跡として、生々しく残っているという。

https://namdoog.hatenadiary.org/entry/20080602 【俳句の世界制作法 ノート(10)】より

 この作品のさらに立ち入った鑑賞に古典の教養が必要になることは言うまでもない。だが俳諧の文学的研究に深入りすることはわれわれの議論の道を踏み外すことになる。ここでは引き続き、現代俳句における〈写生〉の技法の考察に集中しなければならない。

 <写生〉における<認識の弁証法>を現代俳句にかかわる人たちが技法として自覚していたことは重要である。もちろん彼らの理解は互いに相違を伴っていたし誤認も混じってはいた。しかし〈二物衝撃〉(藤田湘子)、二句一章(大須賀乙字)、〈配合〉、〈取り合わせ〉(山口誓子ほか) などの用語は基本は同じ制作技法をいっている。

 じつはこの技法はすでに芭蕉一門が「ふる・ふらぬの論」として考察の中心に置いていて、〈取り合わせ〉の名で読んでいた。われわれも俳句の技法のこの核心を〈取り合わせ〉と術語化することにしたい。

〈取り合わせ〉が制作の技法であることから、定型性こそが俳句の本態であることがわかる。当然ながら〈取り合わせ〉は複数の言語記述を要請する。それゆえ、俳句をひとつの記述の連なりと捉えた場合、そこには必ず分節が具わるはずだ。ここに俳句の定型性の根拠がある。

 ではそれが五・七・五という音数律の形式をとる根拠は何か。これは別途考究すべき大きな問題である。

 現代俳句の歴史は定型性から自由になろうとする種々の動きを見せている。すでに子規の時代に「新傾向の俳句」の制作がさかんに試みられた。子規自身も五・七・五の音数律については原理主義者としてふるまってはいない。『俳句問答』(明治二九年刊)において、子規は一問一答のスタイルをかりて、「字余り」についてきわめて寛容な態度を示している。

 「吾ははじめより俳句を作らんとて骨折るに非ず、ただ吾感情を見はさんとて骨折るなり、其骨おりの結果が十七文字となるか、十八字となるか、はた二十字以上となるかは豫期する所にあらず」(前掲書、三八〇頁) 。

 彼の寛容な態度は俳諧史の知識に由来している。これより先に執筆された『獺祭書屋俳話』(明治二五年刊)において、子規は字余りの俳句について十八の作例を列挙し「今日にありて之を見れば奇怪の観なきに非ざれども、俳風変遷の階梯としては是非とも免るべからざるものならんか」と評している (前掲書、三九三頁)。

 だからといって、子規が俳句の定型性を軽んじていたことにはならない。子規は、非定型性をあくまで例外として認める、というしごく穏当な見地に立っていたに過ぎない。

 こうして「新傾向俳句」や「自由律俳句」などというスロ―ガンは、俳句の成立根拠に無知なために唱えられた誤謬だというべきである。この種の標語に同調して制作された「俳句」の作例をいくつかあげよう。

 草青々牛は去り                        (中塚一碧楼)

 せきをしてもひとり                       (尾崎放哉)

 分け入っても分け入っても青い山             (種田山頭火)

 これらの記述に詩情(poetry)なり抒情性(lyricisim)を感じとる人がいるかもしれない。そのことをもってこれら言語断片を「詩」だと言い張ることもできるかもしれない。それはいいが、だがここには認識の弁証法の気配もない。

 われわれのいう〈弁証法〉とは、世界の光景に新たな視角の可能性を付け加える記号系の再帰的動き(recursive move)のことである。俳句とは、手持ちの言語断片(素材)を加工して以前には潜在性に沈められていた新しい認識を言語表現のかたちで詠うものだ。取り合わせられたものが火花を発してぶつかりあい未知のアマルガムが創発されるのである。換言すれば、俳句の制作とは、記号系を操作して名状しがたい潜在性から可能性を生成させる記号系自体の自己言及的プロセスにほかならない。

 俳句から出発しつつ、ついに「俳句」の名を捨て「一行詩」を名乗る作家もいる。彼らがみずからの詩作を「俳句」と称することをやめたのは、〈季語〉ないし〈季題〉を俳句の構成要素として放棄したことに由来する。われわれの見るところ、「自由律」などという不条理を口にするよりよほど理論的に筋が通っている。

 もちろん問題は俳句を一行に記すか、三行に書き分けるか、という表記のスタイルにあるのではない。俳句の構成要素としての〈定型性〉が作品に具現されているかが問題である。この要素がないところに〈取り合わせ〉もなく、したがってモンタ―ジュが始動する認識弁証法の働きも失われるからである。

 もちろん稀な例外を除けばほとんどすべての作品にはこの種のプロセスが伴わない。それが現代俳句の実情である。これらの俳句を「月並み」という。こうした制作物(artifact)は欲望によって消費される「情報」のアイテムに過ぎない。とはいえ、それらにはそれなりの積極性がある。

 われわれは「月並み」の俳句制作を貶めているわけではない。われわれの真意はむしろ逆である。結局のところ「月並み」の記号学的実践は他者の目で見た世界を詠うことによって世界の共同認識を遂行することである。それは<反復>によって世界の共同制作を強化・推進することほかならない。その意味で「月並み」の句を吟ずることはそれなりの修練とセンスを要求する。*1   (つづく)

*1:世の中には、「三行詩」や「五行詩」などを名乗って「詩らしきもの」を公的メディアにさらしている人士が多いようである。まじめに読んだことはないが、それらの「詩らしきもの」は、今のところ、人畜無害という意味で都市条例に違反しない落書きのたぐいにすぎない。この種のエセ詩歌は「月並み」とは比べ物にならない。