団伊玖磨 作曲『夕鶴』
真の主役が
カネである理由
359時限目◎音楽
堀間ロクなな
「これなんだわ。……みんなこれのためなんだわ。……おかね……おかね……あたしはただ美しい布を見てもらいたくて……それを見て喜んでくれるのが嬉しくて……ただそれだけのために身を細らせて織ってあげたのに……もう今は……ほかにあんたをひきとめる手だてはなくなってしまった。……布を織っておかねを……そうしなければ……そうしなければあんたはもうあたしの側にいてくれないのね?」
オペラ『夕鶴』(1951年)の第一部で、薄幸のヒロインがうたうアリアだ。ここに示されるとおり、ドラマを駆動させているのは、すべてを巻き込んでいくカネの力だと言えるだろう。
有名な昔話『鶴の恩返し』(『鶴女房』)にもとづき、木下順二が劇のために書いた台本に対して、団伊玖磨が曲をつけて成り立ったこの作品は、日本人の手になるオペラとして最も成功したものだろう。純朴な百姓の「与ひょう」によって命を救われた鶴が、人間の女性「つう」となって嫁いできて、みずからの羽根で布を織って御礼に渡したところ、それが高価な品と知った強欲な連中が「与ひょう」をそそのかして、もっと織らせようとしたことから上記の「つう」のアリアにつながっていく。ソプラノ歌手の絶唱がカネのもたらす不合理を切々と訴えかけるのに、わたしも目頭を熱くしながら、同時に、ここで繰り広げられているのはそんな単純なドラマではないことにも気づくのだ。
そもそも、ここまであからさまにカネへの呪詛を主題としたオペラをあまり見かけない。本家本元のヨーロッパのクラシック音楽史においては、莫大なカネが必要なこの舞台芸術を支えてきたのが王侯貴族やブルジョアジーだったことを考えれば、開幕したステージで、真っ向からカネを否定するアリアがうたわれようものなら、まさしく天にツバする事態だったろう。その意味で『夕鶴』は稀有なオペラなのに違いない。
さらに気になるのは、少々オツムの弱い夫がいくら悪い仲間に命じられたからとはいえ、カネのために、愛してやまない妻に無理矢理事を強いたりするものだろうか。たぶん世間のたいていの夫からすれば、立場は逆のはずだ。つまり、妻のほうがよほどカネに執着して、あれこれと口うるさく迫ってきて遠慮するところを知らない、と。実際、わたしの遠い記憶にある『鶴の恩返し』でも、織り上がった布を都へ運んで高い値段で売るように仕向けたのは鶴の化身になる妻のほうで、夫はその指図にしたがうという筋書きだった。いや、なにもがめつさを言い立てるのではなく、日常の生活に対してはるかにリアリストなのは妻のほうだと指摘したいのだ。
むしろ、もともとの昔話ではそんなカネのことよりも、もっとシンプルで重大な主題が込められていたと思う。そう、たとえ親子や夫婦といったごく近しい間柄であっても、女性がいったん「NO!」と拒んだら、決してその場を見ようとしてはいけないという教訓だ。それはただの気まぐれだったり、月々の血のめぐりだったり、ひいては出産や育児のならいだったり、事情はさまざまだろうが、ともあれ女性にはだれしも男性の目から遮断された空間が必要であって、そのタブーはあくまで尊重されなければならない。幼い日に『鶴の恩返し』でこうした教訓を受け取って以来、ずっと肝に銘じてきたのはわたしだけではないはずだ。
すると、こうなるだろう。オリジナルの昔話が含意していた女性にまつわるきわめて意味深長なメッセージを、そのまま衆人環視の舞台にのせることは不可能だった。そこで、木下順二がカネの論理を前面に打ち出し、しかもその担い手を妻から夫へ移すことで劇の形にし、団伊玖磨がオーソドックスなクラシック音楽の表現を与えたことで、日本古来のフォークロアが世界に対して開かれたわけだ。なるほど、カネこそ、時代や国境を超えて人間の行動原理に説得力を与えられる共通言語であり、この奥床しいオペラを成り立たせた真の主役だったろう。第二部のクライマックスで、鶴の正体を盗み見られた「つう」は「与ひょう」に二枚の布を手渡して、こう告げる。
「その二枚のうち一枚だけは、あんた、大切に取っておいてね。そのつもりで、心を籠めて織ったんだから」
だが、周囲の欲に駆られた連中も、他ならぬ「つう」自身も、そして、観客のわれわれもまた、およそ生活能力に欠けた「与ひょう」がその最後の一枚もやがてはカネに替えてしまうだろうことを予感しているうちに、幕が下りるのである。