「美」という言葉には不思議な普遍性がある
https://toyokeizai.net/articles/-/218381 【「美」という言葉には不思議な普遍性がある】より
なぜ異なる「美人」を同じ言葉で呼ぶのか
「美人」の規準とは
そこで、今回は、「美」の問題を「ふつうの人」にもわかるように、かつ哲学的に論じてみようと企んでいます。というのも、「美」こそ記述的意味と評価的意味との対立が見えやすいところだからですが、この淡い期待も打ち砕かれるかも……。
誰でも知っていますが、「美人」の規準は、時代によって、地域によって、個人によって、さまざまです。これは、「引き目・鉤鼻」の平安美人と、歌麿描くところのうりざね顔の江戸美人と、1960年代のハリウッド美人と、ある未開種族の美人とは、月とスッポンほど違う。これをもって「美」は相対的だと結論づけるのは早計であり、それにもかかわらず、なぜわれわれは「美」という同じ言葉(だいたい同じように翻訳される言葉)を使うのか、と問い直さねばならない。
すると、すぐに思い浮かぶのは、各時代・各地域の典型的な「美意識」が異なっているのだろう、という仮説です。しかし、これは、すぐわかるように全然答えになっていない。というのも、「じゃ、それほど美意識が異なるのに、なぜ同じ「美意識」という言葉を使うのか?」となって初めの問いに戻っていきます。
そこで、それぞれ美意識は異なるが、やはりそれぞれの美意識は、何か同一なもの(美のイデア?)に関わっているにちがいない、といういっそう抽象的な仮定を積み重ねるほかない。
とはいえ、「美」を「美意識」に限定すると、先の問いに対する解決に向けて1歩を踏み出せるかのように思われます。なぜなら、対象の側はさまざまに異なっていても、ある時間空間的な範囲に限定すれば、主体の側の「美意識」は同一なのだ、という想定にすがり付くことができるからです。
しかし、こう考えて安心してしまえば、哲学は必要ありません。ついでですが、「美」という言葉の使用範囲は恐ろしく広く、われわれ現代人は「モーツァルトのピアノソナタ」にも「芭蕉の俳句」にも、「ピラミッド」にも「茶室」にも「富士山」にも「ロダンの彫刻」にも「草間彌生のリトグラフ」にも、それぞれの「美」を見いだす。そして、同じ「美」という言葉を使用する。この手の付けられないほど多様なものに共通の性質としての「美」を求めても無理なことはわかっているけれど、といってこうした怖ろしく多様なものが、それぞれ各人の内に同じ「美意識」を刺激する、と言えるかどうか、少なからぬ疑問は残るでしょう。
しかし、この疑問をぐいと呑み込んで、一応この仮説にそって進んでいくと、ある時代、ある民族Aにとっての美人の典型はXであり、それは別の時代の別の民族Bにとっての美人Yとは恐ろしいほど違い、ほぼ真逆であるけれど、AとBの心の中を覗くと、ともにほぼ同じ「美意識(K)」が生じている、と言える感じがする。
その「美意識」を比べることはできない
しかし、この仮説はポンコツ車のように走行不可能です。まず、AとBの「心の中を覗いて」、その「美意識」を比べることはできない。やはり、AとBの発言や振る舞いから、両者は互いにほぼ同じ美意識を持っているのだろうと推察するほかない。とすると、また初めに戻ることになる。というのも、なぜAとBは対象において相当異なる女性XとYをそれぞれ「美人」と言うのかと問うて、AもBも「同じ美意識を持っているから」と答えたはずですが、その根拠は、AもBもXとYとを「美人」という同じ言葉で呼んでいるからとなり、ここで見事に振り出しに戻りました。
AとBが外形的には相当異なったXとYを「美人」と呼ぶのはなぜか、と問うたはずですが、まわりまわって獲得した答えは、AとBがXとYを「美人」と呼んでいるからとなり、はじめの場所から一歩も出ていない。つまり、何も説明していないのです。
一般に、「心」が哲学に登場する場合、このように「答えたつもりになるため」の都合のいい道具にすぎないように思われます。「美意識」を持ち出したのはなぜか反省してみるに、そこには「美人」という言葉で呼ばれる対象はさまざまですが、やはり「美人」という同じ言葉を使うのだから、どこかに「同じもの」があるに違いない。そして、その「同じもの」が外界には見いだせないゆえに、無理やりそれを「心」の中に叩き込もうとする。つまり、推論は次のように進む。まず①同じ言葉を使っているのだから、その言葉の使用関連領域には何らかの「同じもの」があるに違いない。②それは、科学的あるいは論理的に突き止められるはずだ。そして、③突き止められないときは「心」の中に「幻の機能」を創り上げる、というわけです。
このすべては、まったくの根拠のない想定であるけれど、われわれはそれにもかかわらず、なぜかこの想定を手放さないで、むしろそれにすがりついてしまう。ここで、ふたたび、「なぜこうなるのか?」と問うと、「心」をめぐるありとあらゆる哲学的難問が頭上に降ってきます。
ここに「深入り」することが、今回の目標であるはずはなく、ここでは、むしろ①同じ言葉は同じ対象に適用されるはずだ、という想定と、②異なった発話者によって、同じ対象に異なった言葉が適用されたり、異なった対象に同じ言葉が適用されたりすることがある、という経験的事実を調整するために「心」という概念が発案されたのではないか、という論点に絞って考えてみましょう。
われわれは、ふつう大部分の人が「赤」と呼ぶ色を「青」と呼ぶ人Sがいるとき、Sは「アカ」を「アオ」と呼びたいのだとは考えずに、Sは同じ刺激に対して、大部分の人とは異なった色覚を持っているのだと考える。こうして、Sの内面では「赤」を「青」と感じているのだろう、と想定して安心してしまう。Sは大部分の人と同じように感じているのだけれど、なぜかその言葉使用が大部分の人とは異なっている、という発想法は遮断されるのです。
こうして、同じものでも人によってさまざまに感じられると言って安心するのですが、各人の「感じ」には入ることができない、よって比較もできないことを忘れている。そして「美」の場合、以上の真逆でありながら、やはり各人の「感じ」を持ち出して「解決」しようとする。もう説明したので、くどくど繰り返しませんが、大部分の人が「美人」と呼ぶのにそう思わない人、逆に大部分の人が「不美人」と思っているのに「美人」と称賛する人が出てくると、彼(彼女)はふつうの人とは美に対する感受性が違うのだろうと断じて、切り抜けようとする。
いいでしょうか? これは単なる1つの説明方式なのであって、ほとんど根拠なく多くの人が賛同しているだけであり、それ以上の意味はない。もしかしたら、「心」や「感じ」の個人差などなくて、ただわれわれが言語を学ぶと、各人がなぜか互いに少しずつ異なった言語の使用法を開発し始めるのかもしれない。こう想定しても、すべて説明可能です。
言葉の使い方がふつうの人と異なっているだけ?
最後に少しだけ、連日ニュースをにぎわせているゴミの山のようなウソについてコメントしますと、いま問題になっている国会議員AもBもCもDもEも、官僚FもGもHもIもJも、ウソに対する感受性が違うのではなく、すなわちウソをついても屁とも思わない厚顔無恥な感受性なのではなく、ただ「ウソ」とか「真実」という言葉の使い方がふつうの人と異なっているだけなのかもしれない。
確定的証拠のない限り平然とウソをつく人々、いや、膨大な証拠を突き付けられても「ウソをついた」と自認しない人々の群れに、怒りを通り越して不思議な気持ちに襲われる現今、むしろ(心身の健康を保つには)こう考えたほうがよさそうに思われます。もはや、現代日本の政治状況は、通常のモデルでは分析できないほどの異常事態だということでしょうか?