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俳句の相談

2022.11.19 12:46

https://gokoo.main.jp/001/?cat=18 【カテゴリーアーカイブ: 俳句入門】より

《俳句の相談》互選は意味がない

互選の点数がまったく意味がないのはこのためです。

互選は点数でなく、誰がその句を選んだかが大事です。

いいかえると、選句力のある人がどの句を選んだかこそが大事です。

《俳句の相談》作句と選句

句会にゆけば作ってきた句を出し、当然のように選句をするわけですが、作句と選句はまったくちがいます。

句を作るときは誰でも一生懸命に作ればよい。

「俳句は頑張らないほうがいい」などという人がいますが、とんでもない見当違いです。

ともかく作句のさいにはこの「一生懸命」が大事です。

これに対して、選句では「冷静」になって選ぶ、これが大事です。

この「冷静」は「冷徹」さらに「非情」といってもいいものです。

なぜかといえば、句を選ぶということはその句が文学作品(一編の詩)として成り立っているかどうかを判定することだからです。

くわしくいえば、詠んでいる対象はこれでいいのか? 発想捉え方は? 表現はこれで十分か? そして、こういう作品が過去にないか? あるとすればそれを超えているか?などを判定するわけです。

単に「共感したから」というだけで選んでは行けない。

そうした選ができるようになるには俳句をはじめ文学や世の中の勉強(精進)をしなければなりません。

いいかえると、誰でも句は作れるし、句会にゆけば誰でも選句をしますが、誰もが選句ができるわけではないということです。

《俳句の相談》全部写さない

句会で選句をするとき、清記用紙のすべての句をノートに写している人がいます。

理由を聞いてみると、勉強のためとか作者への敬意という答えが返ってきます。

しかしながら、これはとんでもない見当違いであり、ぜんぶ写すのは百害あって一利なしです。

・披講がそこで滞り、句会に時間がかかる。

・下手な句も写すので、下手になる。

・もっとも大きな問題は選句といいながら、全部写したのでは選句になっていないということです。

全部写せばあとであらためて選ばなければならないわけですが、たとえばそこでもし倒れれば選句はできません。

全部を写している人は自分はいつまでも生きていると勘違いしている人です。

いいかえれば、いつ死んでもいいという覚悟ができていないわけです。

選句のときは選句をする。

そこで倒れても、その人の選んだ句がわかるというようでなくてはなりません。

《俳句の相談》平等ということ

句会を貫いている最大の原則は平等ということです。

職業、性別、人間関係などではなく、作品だけで句を選ぶのが句会です。

平等を守るために句会にはいくつかの仕掛けがあります。

・投句のとき、短冊には句だけを書き、無記名であること。

・投句された句は別の人が清記用紙に清書すること。

 筆跡でわからないようにするためです。

・主宰(先生)も会員といっしょに(互選の披講の前に!)選句を披講者に渡すこと。

これらの原則が守られていないような句会は句会ではありません。

主宰が互選の披講を聞いて自分の選を直しているならば、その句会はすぐやめたほうが賢明です。

《俳句の相談》季語と季題

季語と季題という言葉は使い分ける必要があります。

季語は季節を表す言葉全般をさします。

これに対して季題とは題詠の題にする季語のことです。

題詠の場合、季語を題にすることも季語でないふつうの言葉を題にすることもありますが、季語を題にするとき、その季語を季題というのです。

「ホトトギス」系の結社では季題という言葉を使い、季語という言葉は使いません。

これは俳句を詠むときは必ず季語を題にして詠みなさいという姿勢の現われです。

《俳句の相談》季語の宇宙性

季語とは季節を表わす言葉です。

季節は地球の回転軸が傾いているために地球上に生じる現象ですから、季語は宇宙的な現象を表わす言葉です。

俳句には季語を入れるという約束がありますが、それは俳句を宇宙とつなぎ、小さな(世界でもっとも短い定型詩)を大きな詩に変える働きがあります。

理由のない決まりではありません。

《俳句の相談》切れは「間」を生む

切れは俳句にとって季語以上に大事なものです。

ただ切れが大事というのはただの決まりではなく、季語同様、理由があります。

俳句は短い詩ですから言葉だけで何かを伝えようとすると、長い散文や短歌にはるかに及びません。

しかしながら俳句には切れがあって、この切れが「間」を生み出します。

「間」は絵でいえば空白であり余白です。

音楽でいえば沈黙です。

このように何もない空間、時間である「間」が言葉以上に雄弁に働く。

これが俳句最大の秘密です。

俳句を作るときは「間」が働くようにしてください。

また俳句を読むときは言葉だけ読んでもだめで、言葉と言葉の「間」を読んでください。

「間」を作ったり、読んだりするには心を静かにしなくてはなりません。

《俳句の相談》なぜ575なのか

短歌もそうですが、俳句は575のリズム、5拍と7拍の組み合わせのリズムでできています。

なぜ5拍、7拍なのか。

これは俳句だけでなく古くからの日本の詩歌の大問題です。

日本は海に浮かぶ島国ですから、大昔、人類がこの島にたどりつくには舟を使うしかなかった。

それも1日か2日ではなく、数か月、ときには何年もかかる舟旅です。

舟を操るには櫓や櫂を漕ぐわけですが、このとき櫓、櫂に合わせて歌うのが舟歌です。

5拍、7拍のリズムはもともと舟歌のリズムだったのではないか。

この舟歌のリズムが日本に定着したあとも人々の心にずっと残っていて、やがて和歌の調べとなり、のちに俳句が生れてきた。

私はそう考えています。

*参考=長谷川櫂『海の細道』中央公論新社

《俳句の相談》俳句はなぜ短いか②禅の思想

もうひとつは中国の宋・南宋から伝わった禅の影響が考えられます。

禅は言葉に対してふたつの相反する考え方をもっています。

1)言葉では真理に到達できない。つまり言葉を信用しない。

2)しかし言葉は真理に到達するための有効な手段ではある。

このふたつの考え方が合わさると、言葉は短くなるしかありません。

禅の語録に残されている禅の言葉が短いのはそのためです。

中世以降、禅のこの思想が日本に流れこみ、そのなかから短い俳句が誕生したと考えられます。

《俳句の相談》俳句はなぜ短いか①蒸し暑さに適応

俳句は世界でもっとも短い定型詩です。

この短い詩がなぜ日本で誕生したのか。

これにはふたつの理由が考えられます。

ひとつは日本の夏が高温多湿でたえがたい暑さであるために、言葉はできるだけ短いものが求められたということが考えられます。

*参考=長谷川櫂『和の思想』中公新書