俳句の作り方 俳句とは何か?
https://jphaiku.jp/how/index.html 【俳句の作り方 俳句とは何か?】より
俳句と短歌の違い
俳句と短歌は、どちらも日本文化を代表する定型詩です。
定型詩とは、文字数が厳密に決まっている詩のことです。
その目的も似通っており、どちらも、喜びや悲しみなど、自分が感じたことや、見た風景、自然などのありさまを言葉にして伝えます。
このため、混同しやすく、門外漢だと、まったく違いがよくわかりません。
大きな違いは、文字数の違いと季語の有無です。
俳句は五・七・五の十七文字です。
夏草や兵どもが夢の跡
(なつくさや つわものどもが ゆめのあと)
松尾芭蕉が平泉で詠んだ俳句です。
「夏草」が季語となります。
「このあたりは夏草がぼうぼうに生い茂っているけれど、昔は藤原氏が栄え、源義経が無念にも討たれた場所なんだよなぁ……時の流れとは、残酷で寂しいなぁ」
俳句と川柳の違い
俳句と川柳は同じ「俳諧の連歌」から生まれた兄弟のような物です。
俳諧の連歌とは、貴族の文化であった連歌を、庶民が自分たちでも遊べるようにバカバカしく滑稽なものに改造したものです。
連歌は、前の人が作った五七五の歌に別の人が七七の下の句を付け、さらに別の人がそれに五七五をの句を付けるといったことを繰り返し、36句、あるいは100句までで一作品とします。
俳句は、この俳諧の連歌の発句(最初の句)が単独で作られるようになったものです。
川柳は、付け句が独立したものです。
連歌は、参加者が交互に下の句を付けていくものですが、先に七七の下の句(前句)をお題として出して、それにベストマッチする五七五の句(付句)を考えだすのが、付け句という遊びです。
これを繰り替えしているうちに「お題として出される前句にはあまり意味なんか無いよな。付句だけで良いのじゃない?」ということになったわけです。
前句などなくても、十分におもしろさが伝わることに気づいたのですね。
このようにして生まれたのが川柳です。
発句(俳諧の最初の句)は、意味を通じやすくするために季語を入れることが重要とされ、切れ字によって、強く言い切ることを特徴としていました。
逆に付け句では、日常的なわかりやすい滑稽や、おもしろさが重視されました。
このような成立の経緯が、俳句と川柳の性格の違いとなっています。
俳句
古池や蛙飛びこむ水の音
川柳
芭蕉翁ぼちゃんといふと立ち留まり
どちらも松尾芭蕉がカエルが池に飛び込んだ音を聞いたことを伝えた句ですが、意味するところは大きく異なるのがおわかりかと思います。
上の俳句は、情緒や余韻を大事にしていますが、下の川柳は、芭蕉の真剣な様子を茶化して伝えています。
風景や物に想いを載せる
喜びや寂しさ、感動などの心の動きは、そのまま「子供が死んで寂しい」などと書いてしまうと、単なる説明になってしまいます。
とんぼつり今日はどこまでいったやら
これは江戸時代の女性俳人、加賀千代女(かがのちよじょ)の作品です。
彼女には息子がいたのですが、幼い頃に死んでしまいます。
いなくなってしまった息子は、きっとどこか遠くまでとんぼつりに出かけてしまったのだろう、早く帰ってこないかなぁ、という子供を偲ぶ句です。
あるいは、息子は天国でもとんぼつりをして楽しく暮らしているのだろうか、という解釈もできます。
作者の感情を断定的に書かないで、とんぼつりに託したことで、読み手は千代女の気持ちを想像して、より深く、その悲しみや寂しさ、親心などを理解し、共感することができます。
松尾芭蕉の高弟、服部土芳(はとりどほう)は、その著書『三冊子(さんぞうし)』の中で、この点について、次のように述べています。
物によりて思うふ心を明かす。その物に位をとる。
引用『三冊子』 著者:服部土芳
「物に託して、心を表現することが大切です。
その心にふさわしい品位を物によって表します」
という意味です。
例えば、正岡子規の句で、次のような作品があります。
いくたびも雪の深さを尋ねけり
これは病気で寝たきりになってしまった子規が、雪景色を見ることができずに、どれくらい雪が積もったか、何度も尋ねてしまった、という意味です。
『雪』の儚い、それでいて冷たく冬の厳しさも感じさせるイメージが、病床にある子規の気持ちを代弁してくれています。
物に気持ちを託す場合には、その物の持つ品位、言い換えるとイメージが大切であるということです。
感情を述べずに、物に託して伝えることで、単なる説明では伝えきれない深い心の動きまで読者に伝えることができるというのが、俳句の醍醐味です。
俳句は挨拶
明治生まれの文芸評論家、山本健吉は俳句は表現の特質から、以下の三要素に集約できると言いました。
「俳句は滑稽なり。俳句は挨拶なり。俳句は即興なり」
引用・『挨拶と滑稽』昭和23年 山本健吉
俳句は存門の詩と言われます。
聞き慣れない言葉ですが、存門とは、安否を問い、慰問するという意味です。つまり他人のところに出かけていって語りかけること、挨拶のことを意味します。
実は、松尾芭蕉の時代から、俳句は挨拶を第一にして作られる物だったのです。
この頃の俳句は、俳諧連歌の発句(最初の句)にあたる部分に該当します。
そして、発句はイコール挨拶句でもあります。
句会の場所で、招かれた客が主に対して挨拶として発句を作り、主が発句の句柄に対応した脇句(第二句)を返します。
例として、松尾芭蕉が『奥の細道』の旅の途中、最上川のほとりにある「一栄・高野平右衛門」宅の句会に招かれたときの「発句」と「脇句」を掲載します。
●発句
さみだれをあつめてすずしもがみ川
芭蕉
●脇句
岸にほたるを繋ぐ舟杭
一栄
この句会が開かれたのは、六月上旬の暑い時期で、芭蕉は旅の疲れを癒してくれた最上川の涼しさに感謝し、この景色を一望できる一栄宅を賛美しました。
これに対して、一栄は「いやいや我が家など、蛍を繋ぐための舟杭にすぎませんよ」と謙遜して答えています。
蛍とは芭蕉のことを指しており、解釈すると、「江戸の巨匠である芭蕉殿をお招きするために用意した家のようなものです」と、芭蕉を歓迎する意味になります。
たった、これだけの短い言葉のやりとりの中に、これだけの暗喩と意味を盛り込むとは、巨匠たちのやりとりは、さすがですね。
この発句は、松尾芭蕉の『奥の細道』に掲載されている「五月雨をあつめて早し最上川」の原形です。
芭蕉はこの後、最上川の水流の激しさは涼しいなどと呑気なことを言っていられるような状況ではなく、「早し」の方が適しているという考え、「奥の細道」に掲載する際には『五月雨をあつめて早し最上川』の形になりました。
この名句も最初は、一栄に対する挨拶として作られたものだったのですね。
高浜虚子は、『虚子俳話』の「存門」の章で次のように語っています
お寒うございます。お暑うございます。日常の存門が即ち俳句である。
引用・朝日新聞『虚子俳話』 昭和31年12月29日
俳諧は、庶民たちが交流して楽しむ日常の文芸でした。
その発句は、芭蕉と一栄の句のように、自然と挨拶の要素を含むことになったのです。
「挨拶には一期一会とか無常感といった思いが基礎にあるのではないかと思う。そんなに何回も会えるわけではない。ここで対面のするのもこれで最初で最後かもしれない。
人間に対しても風景に対しても。そうした一期一会の無常の思いをいだいていることによって挨拶ができる」
『NHK俳句』選者・矢島?男
参考・『俳句とめぐりあう幸せ』好本惠/著 リヨン社
これはテレビ番組『NHK俳句』の選者をしていた矢島?男(やじまなぎさお)さんの挨拶句についての言葉です。
芭蕉と一栄も一期一会の思いを込めて、句会に臨んだのでしょう。その心が後世に残る名句を生んだとも言えます。
また、挨拶句の中には慶弔贈答の句もあります。
友人や親族縁者、俳句の師弟などの相手に祝意や哀悼などを述べる句です。
これよりは恋や事業や水温む
これは高浜虚子が学校の卒業生に贈った句です。
彼らの明るい未来を祝福しています。
また、
たましひのたとへば秋のほたるかな
飯田蛇笏
これは芥川龍之介への哀悼を詠った句です。
「亡くなった人の魂が、秋の蛍のように儚く闇の中に消えてゆこうとしている」
という句意です。
こういった慶弔贈答の句には、前書きの一文が付き、第三者にもその意味が伝わるようになっています。
解釈は自由
学校の国語の授業だと、文学作品を読ませて、「このシーンでの登場人物の心情を答えなさい」といった読解の問題を出します。
こういった問題では、正解は決められた一つしかありません。
このため、私たちは文学には正しい解釈の仕方というのがあり、それ以外の解釈をしてはならない、という固定観念を持たされてしまっています。
しかし、俳句は「どのように解釈してもOK。自由に鑑賞して良い」ものです。
むしろ、作者の意図したものとは違う解釈をすることで、作品の輝きが増す場合があります。
岩鼻やここにもひとり月の客
これは松尾芭蕉の弟子、向井去来の詠んだ句です。
去来は、「突き出た岩のはしに、みなさんの他にもう一人、私という月見に来ている者がいますよ」という意味で詠みました。
しかし、師である芭蕉は、「それでは風流にならない。自分のことを詠んだ句にしなさい」と、主語を他人にではなく、自分にした句にすることを勧めました。
去来は、「その方が句の趣向が十倍は増しますね」と感じ入ったということです。
このエピソードは、俳句を鑑賞する力の大切さを教えています。
春風や闘志いだきて丘に立つ
こちらは、大正、昭和時代の俳壇に君臨した高浜虚子の句です。
師である正岡子規が亡くなった後、俳句から離れて、小説の執筆に没頭していた虚子が、俳句作りを再開した際に詠んだものです。
当時盛り上がりを見せていた河東碧梧桐の季語や五七五の定型すら無視した、新傾向俳句運動に対する対決の意志が秘められています。
この句は、このような事実に囚われずに鑑賞した方が、より味わい深い物になります。
春の甲子園に挑む野球少年や、社会に踏み出す卒業生の意気込みを詠んだ句や、彼らに送る句として読んでも構わないのです。
新事業を任された会社員の闘志を詠んだものとしても鑑賞できます。
「多義的な読みができるところが、この句の秀句たるゆえんである」
と俳人、坪内稔典(つぼうちねんてん)が評価しています。