ファウンデーションと怒りは別物
さて、昨日の前ふりで
私の中には
「洗った食器はキレイであるべき」
という価値があり、そこが料理をするにあたっての最低ラインの基準
というピラミッドの底辺にあたるような部分があることをお話ししましたが。
これ・・・
毎日毎食、ここを踏み荒らしてくる存在がいるんですね。
ここ、私の怒りポイントです。
作った料理を盛り付けようとお皿を取り出すと・・・
蛍光灯の光を受けて七光りする皿。(すすぎがされていない状態)
泡の状態がそのまま乾いたようなお玉。(水切りが不完全)
なんの食べ残しか?そのままこびりついた小皿。
手で触ると、油で滑るorざらつくボール・・・
毎回毎回、私のメンタルを荒砥のようにゴリゴリ削っていきます。
当然マイコーチと年単位でこの部分は話して
自分の中でできうる事はやりつくしてきました。
・・・でもね、北風と太陽じゃありませんが
「嫁のあなたは口がいいから、私は騙されている被害者」
と思い込んでいる人には、どんな言葉を投げても丸無視です。
どんな提案も、Iメッセージも、アサーティブな伝え方も
最終兵器の旦那・義母の実の息子からの進言もすべてが
暖簾に腕押し、糠に釘。なわけです。
何一つ変わらない、変えられない、気持ちが伝わらない。
同じ屋根の下に住みながら、存在そのものを全否定される。
「これだけファウンデーションに向き合っているのに、
なんでこんなマイナス感情に私は振り回されるんだろう?」
そんな私を楽にしてくれるマイコーチの言葉は
「良いんじゃない?嫌いでも」
「コーチだって怒っていいんだよ。人間なんだから
ファウンデーションでクリアできることじゃないし、でも
ファウンデーションと向き合っていくことが大事なんだよ」
毎回、一年分ほど溜まったフラストレーションがバーン!と
爆発するとき、マイコーチはこんな風に言ってくれます。
たったこれだけなんですけど、溜まったうっぷんは
一旦そこできれいに晴れるのだから不思議なものです。
さて、今回バーン!と爆発しその後の打開策として
自分が使いたい食器を、調理の段階で一度洗う。その後盛り付け。
自分がやる分には、手間も増えますが確実に自分が洗った。
という安心感を手に入れることができますからね。
100膳の食器を洗っていたことを鑑みれば
2膳の食器などお茶の子さいさいです。
ファウンデーションを学び始めた事は、
怒りもコントロールできる。
なんて思っていましたが、コントロールはできません。
ただ、怒りの感情が湧いた時に大きく揺れながらも
この感情を共に俯瞰してくれる、マイコーチという存在のおかげで
穏やかに過ごしたい、という在りたい自分へ戻ってくるのが格段に速くなりました。
そして今
他人を粗末に扱ってくる人を大事に扱う必要は無し。
という部分に落ち着いています。
それでも、食器棚から取り出した食器やカラトリーが
七光りする皿やカレースプーンについた食べた後の油の筋の残りを見ると
腹も立ちますけどね。どれくらいって・・・
元凶に投げつけてやりたくなるか、たたき割りたくなるほどですが
この怒りすら
「うん、コレは怒りを感じていい部分。そうよね自分たちのなじみの食器ではなく
私のお気に入りを使ってやらかすあたり、ホントよくやるわ」
と納得できるくらいにはファウンデーションと向き合っているなぁ。
ってところに収まっている感じです。
でもねぇ。理性と感情はやっぱり別物なので
分かっていても、何かの拍子で私またドッカーンってなるんだろうなぁ。