Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

フレデリック・ショパン、涙ぐましい努力とグローテ夫人のことは忘れないと心に誓う

2022.01.28 06:07

女王の劇場と呼ばれた

マジェスティ シアター劇場

19世紀内部とヴィクトリア女王とショパン♬イメージ♬


ショパンはロンドンに来てから3度目に招かれたのはゲインズボロー伯爵邸宅で行われた夫人が催す晩餐会であった。

ここロンドンても高名な貴族の招待客を前にただひとり出で立ちの違うショパンは自作の曲を煌びやかなガーター勲章を付けた貴族方々の前で演奏し披露したのであった。

勿論、主役は演奏するショパンではなく、主催したゲインズボロー伯爵夫人であり、またそれは、招かれた錚々たる貴族のメンバーのそれぞれの人々であった。

ショパンはロンドンに来てから本命パトロンを探していた…。しかし、大勢の招かれた貴族が居ても、ショパンは結局はパリからの知り合いである、例えば、

シェルバーン夫人やバイロン夫妻とその令嬢のラブラース夫人、にショパンは取り込まれてしまい、

新しいパトロン探しがままならなかった。

バイロン夫人は英語でショパンはフランス語で会話というより、それぞれが言いたいことを言い合っている…、というより、バイロン夫人がショパンに一方的に話しまくり、

ショパンを放さなかったのだ。恐らくは、そのような具合なのだが、

ショパンはバイロン夫人とは気が合うとワルシャワの家族に書いた。

「バイロン夫人 と私はとても仲がいいのです。

『ガチョウと子豚』[ポーランドのことわざ]のように会話をしています。

彼女は英語で話し、私はフランス語で話します。

  彼女がバイロンに飽きたのは間違いなようです。」

ショパンはバイロン伯爵に飽き飽きしていたバイロン伯爵夫人の気晴らしの話し相手ということなのだ…。バイロン夫人の相手ばかりで時間が過ぎてしまうショパンだった。

歌手のリンドにはパトロンが何人も付くというのに…ショパンのあらゆる努力は報われないのか…。

「コンバーミア夫人も私に魅力的だった人たちの中の一人です。私が、ロンドンを発つ前に彼女の邸宅の招待会に招かれました。」と、ショパンが気になるコンバーミア夫人はショパンは横目で眺めつつも、バイロン夫人がショパンを放さないため、コンバーミア夫人と親交を深める暇がなかったショパンであった。

そして、高名貴族のことは、「ケンブリッジ侯爵夫妻、ウェリントン公爵というよりはモンテモリン伯の息子、

そして、スペイン人の見せかけのドン・カルロスがそこにいた。...」

ショパンは大事な社交のチャンスであったはずが、重要な人物とは会話をしたようになかった。これは、ショパンが話しかけてもらえなかったということなのだ。下の者から上の者に先に話しがけてはならない!社交界の掟を忘れてはならない…。

ショパンに話しかけてくれたのは、バイロン夫人だけだったのか…。

そして、 「すべての人々(招待された貴族の人々)については詳しく書けません。」

ショパンはその他の人々の名前も実は覚える暇もないというより全く覚えていなかった。

結局、

次の話しに移ったフレデリックだ…

「…忘れてはいけないのは、私はパリのマルリアニ夫人の店で会ったグロテ夫人のことだ。彼女は高学歴であり教養人です。

彼女がひいきにしている人はジェニー・リンド。リンドを私に紹介してくれたのは彼女でした。

グロテ夫人はリンドと私の2人だけを邸宅に招待しました。私は、夜の9時から午前1時までピアノの前にずっと座らされていました。」

ショパンは子供の頃から貴族のご機嫌取りをして来た、貴族ほどケチなものはないとショパンは貧乏に苦しんできた。音楽家の地位は

結局は下僕なのだとショパンは子供の頃から肝に銘じていた。

ロンドンでもショパンは、貴族の気まぐれな付き合いに振り回されていた。もはや、亡き父ニコラスが夜中まで人と付き合わないようにと息子フレデリックの健康を心配し書簡にいつも書いていたことをフレデリックはすっかり忘れてしまったのであろうか…。

ワルシャワの母ユスティナと姉ルドヴィカが

これを聞いて心配しないわけがないのだ。

フレデリックは家族のために良い話しも書きたかった。グロテ夫人が女王の劇場への

招待状をショパンに送ってくれたことであった。出演はオペラ歌手のリンドだ。

リンドはアメリカからロンドンにやって来てから熱狂的にロンドンの人々から迎えられ、ロンドンのヴィクトリア女王の劇場で歌ったのだ。その席には革命以来、姿を現さなかったヴィクトリア女王が姿を現し、リンド以上の熱狂的な拍手を浴びていたとショパンは語った。実はショパンは女王の劇場への招きがロンドンに来てから一度もなく困っていたのだが、リンドのパトロンになったばかりのグロテ夫人がショパンに最高のボックス席のチケットを招待してくれたのでした。

しかしこれは、ショパンがリンドに歌を教えて伴奏を午前1時まで4時間付き合ったことへのお礼として得たチケットであった。

しかも、ショパンは一階(二階席のこと)席は階段が息が切れると話したら、その後、グロテ夫人は更に最上階が最高の席だとショパンに最高に最上階のボックス席のチケットを送りつけて来たのだ。ショパン、だから

「この仕打ちは一生忘れない」と心に誓ったのだ…。

ショパンの涙ぐましい努力はこの先どうなるのであろうか…。ショパン、ショパン。





『女王陛下の劇場』

ロンドンのウエストエンドにある劇場。

収容人数は1,216席

始まりは1705年、セントジェームス地区のヘイマーケット通りに位置する。

最初の建物はジョン・ヴァンブラによって設計された。

アンの治世中は女王の劇場と呼ばれた。

1714年以降、男性の君主が王位であった頃は王の劇場と呼ばれていた。

1710年代から1789年に全焼した。それまでヘンデルのオペラを主に上演していた。

その後1791年に再建され、1806年にモーツァルトのラクレメンツァディティト、1811年にコジファントゥッテ、1816年にドンジョヴァンニが初演された。

ジョンナッシュとジョージレントンは1816年から1818年の間にファサードとホールに変更を加えロイヤルオペラアーケードと呼ばれるアーケードを増築し現存している。

当時の音楽監督を6年間務めたのは(1827年から)フランスのハープ奏者ニコラ・ボクサ(1789-1856)だった。ヴィクトリア女王が1837年に王位に就き、劇場の名前は、『陛下の劇場・イタリアのオペラハウス』に変更されました。しかし、劇場名の「イタリアのオペラハウス」の部分は1847年に省かれました。

フレデリック・ショパンがロンドンを訪れた頃は丁度その頃で、『女王陛下の劇場』と呼ばれていました。

ショパンは出演した歌手リンド嬢より女王が拍手喝采を受けていたと語り、

特別な最上階にあるボックス席にグロテ夫人の招待状を手にして訪れました。

まだ観たことがなかったから嬉しかったとショパンは家族に伝えた。

その後は1867年12月、劇場は再び火事で破壊され3番目の劇場は1869年に再建され、 1892年に取り壊された。

現在の建物は、1897年再開した。

第二次世界大戦以後はミュージカルを上演しました。1986年以来はミュージカル 「オペラ座の怪人」を上演している。