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■古志の行方 長谷川櫂句集『新年』『富士』及び『和の思想』を読む

2022.01.28 12:57

http://haiku-space-ani.blogspot.com/2009/07/blog-post_04.html  【■古志の行方

長谷川櫂句集『新年』『富士』及び『和の思想』を読む】より

                       ・・・高山れおな

講談社学術文庫から藤原道長の日記『御堂関白記』の現代語訳(*1)が三巻本で刊行されはじめ、出版不況のご時勢にこんなものがと驚いていたら、こんどは角川ソフィア文庫のビギナーズ・クラシックスからダイジェスト版(*2)まで出た。時ならぬ『御堂関白記』ブーム、などはどこにも起こっていないが、プチ王朝オタクとしてはこの偶然も嬉しい。どうせなら藤原実資の『小右記』や頼長の『台記』、兼実の『玉葉』、定家の『明月記』なども全訳で出して欲しいとは思うものの、しかしこれは夢のまた夢だろう。なぜなら記述の“貧弱さ”で有名な『御堂関白記』でさえ各四百頁超の文庫本が三冊要るところ、『小右記』や『明月記』で同じことをしたら途方もない分量になってしまうからだ。

ふた昔前までは、摂関政治が確立すると朝廷の存在は形式的なものとなり、実際の政治は摂関家の政所で行われていた、などという理解が行われていた。貴族たちは恋や和歌や管弦の遊びにうつつを抜かし、退廃的で無為な生活を繰り広げていたというイメージもあった。多少なりとも歴史に興味のある人間でこんな認識を持つ者は今どきいないとはいえ、NHKの大河ドラマなどで公家が出てくると未だに、妙な節回しのきんきん声で喋る白粉の化け物のように演出されているから、一般にはこういう謬見も生きているのかも知れない。周知のように、上記のような公家日記の記述は、こまごまとした朝廷の行事や人事、仏事や神事などの記述で埋まっている。千年後の現代人の眼には事件とも政治とも思えない記事が大半であるが、言うまでもなく当時はそれこそが政治だった。朝廷の運営は天地自然の順調な運行とアナロジーをなしており、朝廷の儀式や神事や仏事は行政そのものであり、勅撰和歌集に代表されるような文化的な営為も政治の責任のもとにあった。四季と性愛の賛美という非政治的な主題の選択において、わが国の古い詩歌は政治に囲い込まれていた。

長谷川櫂の『和の思想』(*3)は、俳人の立場からする日本文化論である。少しばかり俳句を作るのが上手な人という意味での俳人なら、末の世の現在にも数百人単位、ひょっとすると数千人単位でいるのかも知れないが、俳句を通じて文化一般へと論を広げることのできるスケールの持ち主となると、両手(片手?)で数えられるくらいのものではないかと疑う。長谷川の気宇は、やはり当代に抜きん出ているのである。本書執筆の動機の第一は、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』に対する違和感にあるらしい。現在(というのは一九三三年当時だが)の日本では、電気やガスや水道など西洋文明に由来する利器を日本座敷と調和させることが難しく、純日本風の住宅を建てることがはなはだ困難になっているといったあたりから筆を起こした谷崎が、〈陰翳を重んじる日本の伝統はどのようにして生まれたのか〉を考察して、〈それは私たち日本人の醜(みにく)い黄色い肌を隠すためであった〉とするのを、長谷川は〈奇妙な、というよりも、グロテスクな結論〉であるとして批判する。

そこで谷崎は白人の白い肌を無条件に美しいものとしてたたえ、東洋人の黄色い肌を醜いものとして蔑んでいる。『陰翳礼讃』は日本文化を論じた近代の名随筆とされているが、その日本文化論は谷崎の心の奥にある西洋への讃美と東洋への侮蔑の上に成り立っている。そうした土台に立って谷崎は東洋は木に竹を接ぐように西洋文明を受け入れざるをえなかったという論を展開する。

ゆきがかり上、『陰翳礼讃』を読み返してみたのだが、なるほど長谷川の言う通り、こんにちの眼から見て、〈実に無防備な論〉が多いのには改めて驚いた(なにしろ今やアメリカ大統領は黒人なのだ)。それは、一九三〇年代という危機の時代にあって、当時の日本社会に広く共有されていたであろう神経症的な対自・対他認識と、和式便所礼讃に見られるような谷崎の個人的で天才的な官能性との、かなり異様なアマルガムである。そして、これまた長谷川が言うように、『陰翳礼讃』が書かれてからの〈この七十年あまりの歳月のうちに、かつて谷崎がジレンマに悩まされた西洋への憧憬と古き日本への郷愁〉は〈すっかり姿を変え〉て、〈ジレンマを感じさせるものではなくなってしまった〉のも確かであろう。しかし、便所の選択レベルでのジレンマが消滅したからといって、〈日本人がアメリカ人になったわけではない〉のも言うまでもない。

豪華な雑誌(「家庭画報」や「婦人画報」のこと……引用者注)が毎号、特集する和風のものは今となっては古き日本の残骸(ざんがい)のようなものだろう。私たちはそれをときおり、そっと取り出しては懐かしく眺めて心の奥に眠る古き日本への郷愁を慰めるのだ。(中略)/もし、和というものがそのような残骸でしかないなら、たとえば、洋風のマンションの中に一部屋だけ取り残された和室や、たまに食べる鮨や天ぷらのようなものでしかないなら、日本人はアメリカ化が猛威を振う荒海を寄る辺なく漂う哀れな人々であるといわなければならない。/はたして和とはそんなみじめなものだったのだろうか。

いいや、みじめではない、と長谷川は主張する。長谷川の主張の根拠となるのは〈この国には太古の昔から異質なものや対立するものを調和させるという、いわばダイナミックな運動体としての和があった〉という考えである。〈疊の間や和服や和食そのものが和なのではなく〉、洋風のマンションの中に疊部屋があり、パーティーで洋服の中に和服の人が立ち交じり、西洋風の料理の中に日本料理が一皿あっても問題がないといった、〈異質なもの、対立するものを調和させる〉文化のありようそのものが本来の和なのだ、というわけだ。

もし、本来の和というものの上に立って、もう一度眺め直していれば、谷崎は電気やガラスやタイルが和風住宅にそぐわないと嘆く必要はなかっただろう。むしろ、それら西洋文明の産物は和風の住宅にとって歓迎すべき異質のもの、やがて調和するはずの相容れないものとして谷崎の前に現われたにちがいない。木と竹だからだめなのではなく、木と竹だからこそおもしろいのだ。

ここまで記せばご想像がつくと思うが、長谷川の記述は、俳句の取り合わせなどを格好のサンプルとしつつ展開する。例の古池句をめぐる我“池”引水の説も、しっかり繰り返されている。やがて、取り合わせを生かすものとしての「間」の概念が持ち出され、『徒然草』第五十五段〈家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬は、いかなる所にも住まる。暑き比(ころ)わろき住居は、堪へ難き事なり。〉を引きながら、日本文化の根幹にある「間」の精神が、蒸し暑い夏をしのがねばならない風土ゆえの選択から必然的に生じたと述べられる。「間」の実例として俎上にのぼるのは、《彦根屏風》、長谷川等伯の《松林図》、狩野永徳の《洛中洛外図》、平安時代の古筆切のちらし書き、《日月山水図》、連句の付合などなど。出だしはなかなか快調だったのだが、このあたりまでくると、もうすっかり平凡な、よくある日本文化論といった感じである。異質の共存こそが和だとする考えなど加藤周一の「雑種文化」以来の珍しくもない着眼であろうし、「間」がどうこうという話もずっと精緻な議論がすでにいくつもなされているはずだ。最後の「和の可能性」の章における、キリスト教とイスラム教という一神教どうしがテロや戦争で対立する世界に対して、〈日本のような多神教の国でのさまざまな神々のなごやかな共存、宗教同士の融和は平和な世界のひとつのモデルとなりうるだろう〉といったあたりの発言もあまり生産的とは思えない。こういうことを言う人は長谷川に限らないが、イスラムと欧米の対立は、一神教の対決という以上に、イスラム教と世俗主義の対立であろう。西欧であろうと日本であろうと世俗主義が制覇した場所では、一神教も多神教も蜂の頭も問題にならないのである。その世俗主義にこそイスラムは反撥しているわけで、どっちにしろ和などの出る幕はないのだ。

ところで、そもそも『陰翳礼讃』が建築に関する議論に端を発していたように、本書『和の思想』では建築が重要なファクターとなっている。古い絵画や詩歌はともかく、現在ただ今の「運動体としての和」の代表的な成果として提示されるのは、日本的な素材とモダンデザインを調和させた、隈研吾(くまけんご)らの建築作品なのである。具体的には、東京ミッドタウンに入っているサントリー美術館や栃木県の那須にある広重美術館だが、もうひとつ熱海の旅館「蓬莱」に隈の設計で新設された浴場についても特筆されている。蓬莱といえば西の俵屋と並び称される和風旅館の東の正横綱。長谷川はこの旅館にしばしば滞在するとかで、専らここで詠まれた句だけで、一冊の句集まで編んでいる。それが第九句集『富士』(*4)。制作期間は、ひとあし先に出た第八句集『新年』(*5)とかなり重複している。すなわち『新年』は二〇〇五年から二〇〇七年にかけての四〇九句を収め、『富士』は二〇〇六年から二〇〇八年にかけて「俳句」「俳句研究」に発表された四つの大作を収める。句数では二〇二句になる。

『富士』は、収録を蓬莱旅館に滞在して制作した旅吟(と、長谷川は言っているが……)に限り、『新年』にはそのような枠が無いという違いがあるとはいえ、句そのもののテイストには実質的な差はないから順不同で見てゆきたい。これらふたつの句集に共通する特徴とは何か。先ほど、『和の思想』のような文化論をものする長谷川の気宇ということを述べたが、気宇の壮大さは両句集にもあきらかに見てとれる。(以下、「新」は『新年』の、「富」は『富士』の略。数字はノンブル。『新年』は一頁二句組なので頁における左右も示した。『富士』は一頁一句組)。

初山河まづ太陽のとほりゆく 新8右

太陽と月の間に涅槃せり 新14右

日と歩み月と眠りて遍路かな 新16右

天と地の間に一人更衣 新22左

乾坤にまためぐりきて初日かな 新71左

天地を押し開くべく粥柱 新75右

天地の間に一つ初音かな 新138左

天と地と人のつくりしメロンかな 新165左

乾坤に投げ入れてある椿かな 富9

乾坤をめぐりめぐるや秋の声 富28

月の甕太陽の甕蓮根分 富43

天地のここに我ある初湯かな 富62

乾坤とともに揺るるや烏の巣 富70

日がめぐり月がめぐるや菊の酒 富99

太陽と月の間に富士凉し 富141

乾坤のぐらりと回り秋に入る 富153

天に懸け地にしだるるや懸柳 富165

天地をくるりと結び柳かな 富166

天地いま鞴(ふいご)のごとく青嵐 富187

「天地」「乾坤」「太陽」「月」などの語が頻出していることがわかる。月と言っても季語の月ではなく、太陽と対になった天体の秩序の象徴としての月である。この種の表現は、長谷川に限らず新聞雑誌の諸家新年詠などでも多く見られるものだが、長谷川にはいわば一年中新年詠をやっているようなところがある。新聞や総合誌で新年詠を詠む場合、俳人たちは自らの結社誌や同人誌でそれを詠む場合とは異なる、一種の儀礼的役割意識を持って作品を作ることが多いわけだが、長谷川はその役割意識が普通の俳人より過剰なのである。その役割意識をもたらしているのは、みじめな和を救出すべく本を一冊書いてしまうような長谷川の強い責任意識であるに違いない。ここにあげた十九句、調子は高いが、文学的にはいかにも空疎で類型的な表現が目立つのは、それがまさに儀礼の言葉だからだ。評者が俳句として面白いと思ったのは、せいぜい最後に引用した〈天地いま鞴のごとく青嵐〉くらい。長谷川の壮大志向・儀礼志向は、天地や乾坤だけでなく、「人の世」とか「国」といった言葉が多用される点にも見てとることができる。

をみならの幸(さきは)ふ国や初薺 新10右

この国に新茶を贈るよき習ひ 新18左

人の世に一日遅れて氷室餠 新26左(前書略)

百姓の持ちたる国や雲の峰 新27左

人の世のこのごろ自在冬ごもり 新53右

雑煮餠国のかたちを如何せん 新73右

人の世のひやひやとして更衣 新93右

丈草のなつかしがりし国の秋 新115右

雪舟の生まれたる国冬田かな 新124右

名も知らぬ国のごとくに茂りけり 新168右

鉾立つや諸国は美田青々と 新170右

  おわら玉天

傾国の菓子やはらかし冬ごもり 新212右

夏草の茂れる国や富士高く 富191

「人の世」「国」といった言葉の頻出は、長谷川の視点の位置の高さを示しているのだろう。視点の位置といっても観念の中のそれである。長谷川の観念の中では、「新茶」や「氷室餠」「雑煮餠」といったささいな事物が、いかにもたやすく「国」や「人の世」などの語を呼び出してしまうのである。

新米のゆきわたりたり天が下 新46左

こんな句まである。長谷川流の帝王ぶりというべきであろう。長谷川の俳句はもはや、庶民の哀歓に根ざした文芸というには、あまりにも壮大な気宇と自負をはらんでしまっているようだ。

ところで、アルゼンチンの小説家で詩人のホルヘ・ルイス・ボルヘスに、次のような詩があるそうだ(*6)。

進めば進むほどに

わたしは単純になる

とりわけもっとも擦りきれた

隠喩を使う

それは玄冥なる真実

星は眼のようだとか

死は眠りのようだとか

四方田犬彦は、この詩を紹介しながら次にような解釈を加えている。

摩滅した隠喩とは真実である。今、ボルヘスの言葉をそのように要約してみよう。彼は隠喩の摩滅を語っているだけではない。摩滅という隠喩についても、それが真実であると説いているといえる。いや、そもそも、あらゆる真実とは、もはやこれ以上摩滅することができなくなってしまった事物のあり方であると、そもそも考えるべきではなかったか。

長谷川櫂がこうした考え方に同意するかどうかはともかく、長谷川が摩滅した隠喩の愛好者であること、これははっきりしている。ただし、作品のトーンは、長谷川とボルヘスではほとんど正反対である。ボルヘスの詩は、詩人が盲目に陥った時期に書かれたということもあり、ペシミスティックで暗い。長谷川の俳句は、驚くほど活気にあふれており明るい。それはおそらく、個人としての長谷川の性格とはあまり関係がない。長谷川の句の明るさは、長谷川にとっての俳句が、個人的なものの表出ととりあえず切れてしまったところに根拠を持っているのである。

花びらを俤にして舞ひ初め 新10左

たまきはる玉の命やこんちきちん 新30右

舟べりに花の舞妓や鮎篝 新103右

たらたらとしたたる玉の初日かな 新133右

  『おくのほそ道』の本書き終へて

散りをへし花さながらや二三日 新145

乙女らの玉と育てし日向夏 新150左

一椀に露とむすべる蓴(ぬなは)かな 新157左

ががんぼの玉のごとくに砕けけり 新169左

生れきて鉾曳く玉の命かな 新175左

わが思ひ花のごとしや冷し酒 新178左

若鮎の花の姿を田楽に 富14

わだつみの神の玉なる鮑とる 富15

まばたいて玉のごとしや蟇 富77

赤貝を花のごとくに包丁す 富124

明易や眠りて花のやうな人 富134

白粥に玉のやうなる餠一つ 富172

蚊柱の玉と砕けし庇かな 富194

事物を「花」ないし「玉」に譬えた句をあげた。まさに摩滅した隠喩であり、摩滅した隠喩ならではの真実性がある、ということは言えるだろう。以前、この種の句を写生であると誤解している人があったが、もちろんここでは描写は全くなされていない。事物は摩滅した隠喩を通じて、記号として受け取られている。それにしても、著書を書き終えて脱力した自分を、〈散りをへし花さながらや〉と譬える神経は並の人間のものではないだろう。

  古志青年部句会

君らみな五月人形さながらに 新90左

などというのも、その並でない先生でないと言えないセリフかと思う。それにしても、「五月人形」に譬えられて喜んでいる(?)結社の若手というのもいるんだねえ。

ゆるゆると蜷(にな)のたどりし道ならん 新16左

ほのぼのと濁れる水に春の鮒 新17右

袋角とくとくと脈打てるもの 新21右

あかあかと大きく一つ大文字 新37右

冬眠のくるりと巻ける尻尾かな 新63右

東京の灯のきらきらと底冷ゆる 新66右

ほのぼのとくもりて青き氷かな 新80右

蘭鋳のいよいよ元気けさの秋 新106右

燈籠をそつとおろすや水の上 新111右

あかあかと榾火を焚けば友来たる 新126右

岩に画く鹿あかあかと榾火かな 新127右

菖蒲湯をざぶりと浴びて来たりけり 新151右

新しき蚊帳さらさらと鳴りにけり 新153左

ざくざくの氷にトマト冷しあり 新181右

ひうひうと凩遊ぶ火口かな 富108

あかあかと椿花咲く山河かな 富113

くつがへる潮あをあをと鮑かな 富131

秋風にからりと焼きし鱸かな 富160

ほのぼのと炭は翁となりにけり 富174

埋火や灰ぬくぬくとあるばかり 富175

きらきらと海の透けゐる葭戸かな 富198

オノマトペにおいても、「あかあかと」「ほのぼのと」など、しばしば王朝和歌以来の磨耗した表現が好まれている。しかし、「ほのぼのと濁れる水」「灯のきらきらと」「ざぶりと浴びて」「灰ぬくぬくと」などといった表現は、調子の良さですらすらと読まされてはしまうものの、いくらなんでも感心はしない。評者として納得したのは、本当のところ、〈ざくざくの氷にトマト冷しあり〉くらいであった。それにしても、こうした類型的表現によって一句を仕立ててしまうことを可能にしているのが、長谷川の技術である以上に自信だということには気を付けておかなくてはなるまい。

なお、比喩やオノマトペ以外の類型的表現もはなはだ多い。タイプはそれぞれである。

東風吹かば西へ東へ帆掛け舟 新12左

「西へ東へ」は定型句であって、描写ではない、ということだ。

こぼれきし花かとみれば鳥交む 新15右

望月をおもかげにして観世音 新44左

寒紅を惜しみ命を惜しみけり 新137左

「花かとみれば」「おもかげにして」「命を惜しみ」といった、王朝和歌紛いのフレーズが、その磨耗性のゆえに愛玩されている例であろう。

太古より榾火を守る人や誰 新126左

凩に龍を画きたる人は誰 新210右

着ぶくれて生きにくさうな人は誰 新214左

これらの句の下五の表現は近世俳諧のフレーズを、やはり骨董的に愛玩しているのであろう。そのうち三句目は、「生きずらさ」という近年の流行語というか社会問題を取り入れているあたりが、多少の冒険を感じさせるが。

風花や一生をかけて守る人 新78右

これはブライダル産業由来の定型的な発想に、季語を取り合わせたのであろう。

まくなぎの空なつかしき野山かな 新168左

まくなぎといふ悲しみを如何せん 新169右

あるいはまくなぎが懐かしいといい、あるいは悲しいという。この懐かしさにも悲しさにも、いかなる個人的な実感も反映されてはいない。作者の態度に、いささかの弛緩と侮りを感じる。その侮りは何に向けられているのだろう。まくなぎに? 言葉に? 読者に?

大空にまた現れし冬日かな 新125右

雲もまた生々流転秋に入る 富26

これらは虚子の表現の転用だが、パロディーというよりむしろ、長谷川の虚子化に興味が向く。岸本尚毅とは違って、人格ごと虚子化している印象があり、なかなか凄い。「大空に」の句は少し怖くて面白い当たり前、「雲もまた」は当たり前なだけの当たり前。

蘭鋳の立ち泳ぎまた横泳ぎ 新96左

なつかしき闇のかなたや大文字 新109左

鶯や一つ大きく明らかに 富8

風吹いて涼しき音の木賊かな 富137

樟を吹く我は五月の夜風かな 富188

これら五句も、安易で投げやりな感じ。「樟を吹く」の句もそうだが、次の三句なども、言葉の意味は通るのだが、作者が何を言いたいのかが皆目わからない。

ほのめいて星の恋する夜空かな 富155

大空の二つの星の我らかな 富156

凡そ宇宙に一つきりなる星の恋 富157

三番目の「凡そ宇宙に」の句はもちろん去来の墓を詠んだ虚子の句を踏まえた表現。これらの句における「星の恋」は、まさか長谷川夫妻のノロケではあるまいとは思うものの、彦星・織姫に成り代わっての詠とも取りきれず、読んでいてかなり困った気分にさせられた。困ったといえば、次のような句も、どう受け止めてよいやら戸惑いを覚えた。

   宮崎へ赴任する人に

青山河邇邇芸命(ににぎのみこと)さながらに 新94右

太箸や国生みの神さながらに 富36

前の句。宮崎への赴任を天孫降臨になぞらえるというのも長谷川一流のユーモアなのだろうが、大袈裟にすぎて、常人の間尺には合いかねるようである。後の句。太箸で雑煮か何かを食べて箸の尖から汁が垂れるのを、天沼矛(あめのぬぼこ)の尖からしたたり落ちた塩が凝ってオノゴロ島が生まれたという神話になぞらえている。なかなか巧みな見立てではあるが、一句のトーンが結構マジなのに評者などは引いてしまう。すでに挙げた句の中に、〈雑煮餠国のかたちを如何せん〉というのがあった。この句の「国のかたち」というのは、司馬遼太郎のエッセイ集『この国のかたち』に由来するとおぼしい。長谷川には、『国民的俳句百選』(*7)という著作もある。かれこれ考え合わせると、冗談抜きで、長谷川の中に国民作家的自意識が育ちつつあるとしか思えないのだが。

よき人の夢の中ゆく鯨かな 新12右

生意気であることのよき帰省かな 新33右

よき米屋小千谷にありて今年米 新46右

この子よきその名さくらや七五三 新56右

夢殿に眠るよき夢初氷 新59右

ずばずばといふことのよき団扇かな 新98右

よき硯朝夕に露むすぶらん 新105右

その人に芦刈山のよき句あり 新176左

ごつとある富士こそよけれ更衣 富51

よきかほの鶯笛をえらびけり 富116

よき人のよき音をたて初湯かな 富170

当ブログ第二十二号の拙稿で、小原啄葉の句集『而今』を書評した際、この句集の思想は“良き”であろうと述べたが、長谷川の“良き”愛好は小原以上である。ただ、同じ“良き”でも小原のそれが、分相応に安んじて人生を受け入れるという、まことに庶民的な立ち位置からの“良き”であったのに対して、長谷川の場合はニュアンスが少々異なっているようだ。おそらく長谷川は、『万葉集』巻第一にある〈よき人のよしとよく見てよしと言ひし芳野よく見よよき人よく見〉を踏まえ、且つ倣い、“良き”という言葉の呪力で世界を祝福する行為を、半ば意識的に実践しているのだ。これも国民的「ことわざ師」(というのは坪内稔典の用語)としての責任感のなせるわざであろう。ちなみに、上記の万葉歌は天武天皇の御製である。

この網戸風を殺してゐるらしく 新32左

凩やここに烏の落し籠 新51右

ここに火を焚くや長巻山水図 新52右

水澄むやこの谷の石青むほど 新61右

今宵この天のまほらを雁わたる 新119右

  太宰府天満宮

けふここに俳諧自在梅の花 新139左

この店の花より早き桜餠 新144右

この人のいよよこれより今年竹 新160左

今宵みるこの大文字の一字かな 新186左

この庭の秋夕ぐれを惜しむべく 新205左

湯浴みしてここに一日今年竹 富17

この宿の夏の怒濤を惜しみけり 富25

このあたり煙のごとく山眠る 富31

これやこの蓬莱餠や冬ごもり 富33

この山の木の芽花の芽雑煮かな 富35

この国のこの春のこの桜餠 富65

秋風を漁りてこの大鮑 富90

草枕こよひはここに菊の酒 富98

この宿の一木ほのめく桜かな 富119

この空の奥の奥まで風凉し 富142

この宿の秋の縁をたたふべく 富159

朝風呂やここに春立つ桶の音 富176

我立ちてすなはちここに青芒 富192

この宿の夏のなごりの団扇かな 富204

『新年』『富士』の両者を通じて、「この」とか「ここ」といった代名詞が頻出するのにも驚かされた。評者は、近年の俳句で、「でありけり」とか「ゐる」「をる」などの語で、下駄を履かせて五七五を埋めるやり方が多いのに苦言を呈したことがあるが、長谷川はさすがにスタイリストゆえ、「でありけり」などの醜陋な表現は両句集を通じてひとつもない。こうした言葉の代りに、調子を整える虚辞として使われているのが、これら多数の「この」であり「ここ」なのであろう。しかし、やはりそれだけというわけではない。他ならぬ「この」私がいるいま「ここ」の讃美という形での、主体の表出こそがこれらの表現の核にある動機ではないかと評者には思えるのだ。ちなみに、長谷川における主体の問題に触れて、林桂がこんなことを書いている(*8)。長谷川や夏石番矢らを論じた宗田安正の文章に対する批評の一節であるため、やや文脈が読み取りずらい点はご海容を請う。

宗田は、俳壇がニューウェイブを必要とした深層を根源的な「主体」表現の変化の問題として摘出している。勿論この問題に最も早く直面し自覚的だったのは、夏石番矢で(中略)この状況を、夏石は「夏石番矢」という超越的な仮構的主体を構築することで切り開こうとした。宗田に「伝統俳句の価値観や精神にストイックにこだわる」と評される長谷川櫂は、近代的な主体の問題を俳句の問題から故意に欠落させて回避し、この状況からどれだけ遠く遁走できるかを問うているようである。だから、長谷川の俳句には根本的に近代的な主体とその問題も不在である。

林はこのように述べるのであるが、『和の思想』ひとつを見てもわかるように、長谷川にはむしろ近代的な主体を人一倍抱え込んでしまっている面もあるのである。だからこう整理することもできるだろう。本来、かなり強固な頭脳と主体の持ち主であるはずの長谷川なればこそ、「故意に欠落させ」た主体が彼の俳句に残した空隙は大きく、その空隙を埋める形で滲出してきた「いま『ここ』にいる『この』私」もまた非常に肥大することになった。あるいは民を愛で国土を祝福する王のように、あるいは国生みの神のように、あるいは「国のかたち」を憂うる国民作家のように、である。それは、「夏石番矢」のように作中主体としてしかと名指されてこそいないが、「『夏石番矢』という超越的な仮構的主体」と、やはり好一対の関係にあるのでろう。

黴といふもののかそけき音の中 新25左

何もかもみな黴させてならぬもの 新26右

初氷筌(うけ)を破つて逃げしもの 新58右

雪中に鞠のごとくに眠るもの 新63左

   戦艦大和

海底に山のごとくに眠るもの 新67右

長閑なるものに張子の犬のかほ 新82右

春の夜のわだつみ深く歌ふもの 新85右

吹き荒ぶものの形に氷るもの 新128右

あをあをと氷の奥に眠るもの 新128左

白蚊帳や花のごとくに揺るるもの 新154右

白きもの白きにかさね夕涼み 新178右

愚かにも遺せしものを曝しけり 新183左

月明の蜘蛛の抱きゐるものしづか 新199右

秋かるきもののはじめの団扇かな 富87

特に『新年』の方であるが、「もの」という語もまたしばしば使われている。これまた句の調子を整える役目を持っていることに加えて、長谷川がまさに「対象/もの」に肉薄する根気を失ってしまっているがゆえにこそ、「もの」という語への依存が生じていることを指摘しておきたい。「もの」にシャープネスを合わせきれなくなったために、「もの」という言葉をあたかもカラーフィルターのように使って、一句を情緒化する必要が生じているのだ。その証拠に、長谷川の第一句集『古志』(*9)には、こんな表現はひとつもないのである。「もの」だけではない、「この」も「ここ」も「天地」も「乾坤」もそこにはない(「この山」というのが一箇所だけ出てくる)。「花」や「玉」による装飾も見られない。オノマトペの利用にも、現在の長谷川からは考えられないほど禁欲的である。

『新年』『富士』の句々は過剰なまでの自信に満ちているが、長谷川の句が“くらゐ”を得た結果失ったものがあるとすれば、それは“ほそみ”ということになるだろうか。対象の的確な観察と濃やかに屈折する言葉遣いが渾然となった『古志』の俳句は、類型的フレーズを高調したリズムに乗せて振り回す、粗大な表現に取って代わられてしまった。「運動体としての和」という長谷川自身の理想も、『新年』『富士』に関して言えば、全く実現されてはいないだろう。そこにあるのはほぼ、婦人雑誌の和もの特集さながらの「古き日本の残骸」以上のものではないようだ。はっきり言って当節の長谷川は、濫作に陥っているのではないだろうか。長谷川の自信が多作を可能にし、同じ自信がその多作が濫作であることを見えなくしてしまっているのだろう。あまり肯定的に読むことのできなかった二冊の句集だが、もちろん佳珠を全然欠いているわけではない。以下は、評者として、“ほそみ”を残していると感じられた句である。

俎を流るる水に穴子裂く 新24左

炎天や兜の上の阿弥陀仏 新28右

赤だしの泥のやうなる秋暑かな 新36左

水の音氷の音やジャズピアノ 新60右

東京の春の吹雪を山手線 新80左

裏山の花の舞ひくる雁木かな 新86左

菖蒲湯の踏みしだき入る菖蒲かな 新91左

   金沢、小春亭

草の香のものなつかしき一間かな 新191右

ペリカンの喉はたはたと秋の風 新193左

花はみな冬の鷗となりて飛ぶ 富106

煮凝やわだつみの塵しづもれる 富110

胸ぐらに風掻き入るる団扇かな 富146

(*1)『藤原道長「御堂関白記」』 全現代語訳=倉本一宏 講談社学術文庫 (上)五月十一日刊/(中)六月十日刊/(下)七月十三日刊行予定

(*2)藤原道長/繁田信一編『ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 御堂関白記 藤原道長の日記』 角川ソフィア文庫 六月二十五日刊

(*3)長谷川櫂『和の思想』 中公新書 六月二十五日刊

(*4)長谷川櫂句集『富士』 ふらんす堂 五月八日刊

(*5)長谷川櫂句集『新年』 角川書店 一月三十日刊

(*6)四方田犬彦『摩滅の賦』(筑摩書房 二〇〇三年)からの引用

(*7)長谷川櫂『国民的俳句百選』 講談社 二〇〇八年

(*8)林桂「田中裕明の評価をめぐって」/『俳句此岸 ’04~ ’08』(風の花冠文庫6 四月十八日刊)所収

(*9)長谷川櫂句集『古志』 牧羊社 一九八五年