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虚空へ

2022.01.28 13:46

https://book.asahi.com/article/14499638 【「虚空へ」書評 詩行がつかまえ 余白が手放す】より

できるだけ少ない言葉で詩を書いてみたい−。誕生の不思議、いま触れている感覚、死の向こう。2020〜2021年に14行に凝縮して綴った、軽やかにして豊かな全88篇。『新潮』…

「虚空へ」 [著]谷川俊太郎

 新聞や雑誌に書評やコラムを書くときは、ウェブ版の総字数ではなく、印刷紙面の行数と字詰めをたしかめてから書き始める。漢字とひらがなの配分や余白のぐあいで、伝わりかたが変わるからだ。

 口幅ったい言い方だけれど、本書の詩人もいわば同じような配慮に敏(さと)い人だと思う。それは読者への親切という以上に、言葉を内省から自由に解いてやるためのルールのようなものだ。

 「椅子を/引き/立ち上がる//手が摑(つか)み/足が踏む/心は知る/己が自然を」

 ただでさえ余白の少ない新聞の紙面に、詩篇(しへん)を引用するのはもどかしい。本書の場合はことにそうだ。

 ここに収まった88編の詩は、できるだけ「言葉数を少なく」と心がけた作だという。詩人はこれまでも十四行詩(ソネット)の形式を幾度も使っているが、本書はなかでも完成度というか、熟練に目をみはる。

 「静寂が/沈黙を抱きとめる夕暮れ/書類が/白紙に帰る//子守唄の/旋律の/消えない記憶//明日が/捨ててある/道端」

 めざましいのはこの達成が、老境に対したものであることだ。諦念(ていねん)ではなく枯淡のたぐいでもなく、自足ではむろんない。あるがままに老いをなどときれいごとを言わず、さざなみのように寄せ返す日々の泡を、詩行がつかまえ、余白が手放す。

 「残らなくていい/何ひとつ/書いた詩も/自分も//世界は/性懲りもなく/在り続け//(略)空白が/空(そら)を借りて/余白を満たす」

 そういえば四半世紀もむかし、上野公園が外国人の労働者で溢(あふ)れていたころ、いろいろ話をする機会があった。そのときよくたずねられたのが「いま日本でいちばん尊敬されている詩人は?」という質問だった。

 中東はどこもそうだが、とりわけイランは詩人の地位が高く、みなが愛誦(あいしょう)する詩人が歴代いるという。あのとき口ごもった自分の不明を、改めて恥じなくてはいけない。

    ◇

たにかわ・しゅんたろう 1931年生まれ。詩人。『世間知ラズ』で萩原朔太郎賞、『詩に就いて』で三好達治賞。


https://www.sankei.com/article/20211023-B775CVPG5FKCVJHCO2QHNV6NWQ/ 【詩人・和合亮一 『虚空へ』鋭く打ち込まれた詩の杭】より

谷川俊太郎さんの新しい詩集「虚空へ」は、短い言葉の詩に溢(あふ)れている。

長年、いろいろな詩集に目を通しているが、今回の新刊ほど1行1行が短いフレーズと、出会ったことがない…と思っていると、いや、あった。

かつてやはり彼の詩集の中で簡潔さにこだわった「minimal」がここで思い浮かぶ。確かにその続編なのかもしれないが、今回はさらに削(そ)ぎ落されている印象である。

しかしそのたたずまいであるのに、深さと新しさが生き生きと伝わってくる。これは相当の技術と冒険心が必要であると書き手として感ずる。感嘆のため息をつくより他はあるまい。

「言葉数を少なくすることで、暗がりのなかで蛍火のように点滅する詩もあるかもしれない」とあとがきにあるが、正しく闇の中で呼吸しているかのように存在を明滅させながら、こちらの目をじいっと待っている感じが随所にある。何を書くのではなくて、何を書かないのかに向かっているような不思議さがある。

「今の夥(おびただ)しい言葉の氾濫に対して、小さくてもいいから詩の杭(くい)を打ちたい」とあとがきにあるが、その打ち込みの角度は、時折にとてつもなく鋭く見えてくるのである。

「言葉の殻を/剝くと/詩の/種子//詩の種子を/割ると/空//何も/無いのに/在る」。詩を書いて七十数年で、詩集は140冊以上。詩の後輩からすると、背中を追いかけるには、はるかに長い道のりだ。いつも、はかり知れない何かを手渡されている気持ちになる。それでいて笑顔が添えられるかのような余裕と遊びの感覚が読後の余韻に残る。変わらないのは「言葉」というものに必ず立ち返ろうとする詩人の姿である。

『詩』山崎まさよし著(百年舎・3300円)

「目覚めたばかりの心に風が吹く」。25年かけて書きためた詩の数々が様々な街や人の姿を映し出す。日常の閉塞(へいそく)を抜け出して旅の空へ。「コミュニケーションが取りづらい状況の中で、新たに詩集を出すこと」への眼差(まなざ)しに共感。100年先まで残る本をという思いで作られた手触りの素敵(すてき)な一冊だ。

わごう・りょういち 昭和43年、福島県生まれ。『AFTER』で中原中也賞。『詩の礫(つぶて)』の仏語版で、仏文学賞。令和元年、『QQQ』で萩原朔太郎賞を受賞。


https://www.tendai.or.jp/houwashuu/kiji.php?nid=173  【虚空のごとく生きよ】より

 「色即是空、空即是色」はどなたもご存じの般若心経の有名な文句です。でもこの教えを、実際、どのように生かしたらよいのか、わかりにくいものです。そこで、ご法要のときに天台宗でよく唱えられます、もうひとつの言葉をご提案しましょう。「処世界(しょせかい)、如虚空(にょこくう)」、すなわち、世界に処(しょ)する(※居る)ときは虚空(※なんにもない)のごとくであれ、ということばです。

 わたしたちの身の回りはあまりにせわしない。毎日がしなければならないことでいっぱい。したくてもできない、やりたくなくてもやらなければならないということが多すぎます。それこそ生きていることが嫌になっちゃうこともあります。こんなときには「虚空のごとし!」。

 拙僧は仕事がら、お葬式によくかかわりますが、故人は最期を迎えたとき、生きてきてよかった、生まれてきてよかった、と思ってくれていたかどうか、心配なときがあります。人生、いつも充実しているとは限りません。世知辛い世間、しがらみの多い世界。将来も不安、過去も後悔。こんな世の中のことを「娑婆(しゃば)」とか「憂き世(うきよ)(※浮世)」とかいいます。娑婆は梵語で「サハー」といい「忍土(にんど)」と訳され、つらいことがいっぱいの世界のことです。どんなに頑張って成果をあげた人でも最後には死が待ちかまえています。ときによると何のために生まれてきたのか、深い懐疑に突き落とされることもあるでしょう。

 このうっとうしい娑婆をどう乗り切るか。「虚空の如く」、これでしょう。どのようにしたらよいでしょうか。ふつうによくやっているのは、映画を見たり旅行に行ったりする憂さ晴らしです。でもこれは日常の延長の趣味の範囲です。お寺に行きましょう。法事に参加しましょう。お寺や法事は、観劇や旅行と同じように、非日常空間に触れることができるのです。「非日常」から見れば「日常」はたわいのないもの。これを達観すれば軽妙洒脱の感を得られます。

 でも軽薄ではいけません。虚空の「如(ごと)し」です。「如」は「同じ」であるとともに「似たようなもの」という意味をもちます。だから世間の重みも同時に知ってこそ、軽妙さが生きてくるのです。こだわりをなくしてこそ、ほんとうに大切なもの、こだわらなくてはならないものが見えてくるのです。この逆説が般若心経の真意と思われます。この自在感を得るこころのありようを作るのが「虚空の如くあれ」でしょう。