小林一茶の有名な句
https://yeahscars.com/kuhi/yasegaeru/ 【やせ蛙負けるな一茶これにあり】より
やせがえる まけるないっさ これにあり
やせ蛙に対して胸を張る一茶
やせ蛙負けるな一茶これにあり「七番日記」文化13年(1816年)四月項に、「蛙たゝかひ見二まかる四月廿日也けり」の前書きで、「痩蛙まけるな一茶是二有」として載る小林一茶の句である。4月18日に菅相山に入り、六川(長野県上高井郡小布施町)に滞在していた時の句か。前日は雷で夜は雨も、20日には晴れた。
「希杖本句集」には、「むさしの国、竹の塚といふに蛙たたかいありけるに見にまかる四月二十日也けり」の前書きがあり、東京都足立区の炎天寺で詠まれたとの説もある。
「蛙」は俳諧歳時記栞草にも春之部二月に分類される春の季語であるが、ここにいう旧暦四月二十日は「夏」で、「蟾蜍(ひきがえる)」である。
アズマヒキガエルは、産卵の雌を巡って争う「蛙合戦」の激しさで知られている。小林一茶の代表句とも目されるこの句は、2年前に51歳で結婚した自らの境遇を顧みて詠まれた応援歌だとも言われている。それを踏まえて意味を考えるなら、「不遇に苦しんできた一茶でも、年老いて結婚することが出来た。だから諦めることはない。頑張れ!」といったところになるだろうか。
https://yeahscars.com/kuhi/suzumenokosokonoke/ 【すずめの子そこのけそこのけお馬が通る】より
すずめのこ そこのけそこのけ おうまがとおる
一茶が見た馬は敵か味方か
すずめの子そこのけそこのけお馬が通る「八番日記」文政2年(1819年)2月の句で、「おらが春」などに載る小林一茶の有名句のひとつ。
一茶には、「けむからんそこのけそこのけきりぎりす」「やよや蝶そこのけそこのけ湯がはねる」などの句もあり、「そこのけそこのけ」は、狂言「対馬祭」の「馬場のけ馬場のけ~御馬が参る御馬が参る」に依る文言だと言われている。
現代風に解釈すれば、季語は「雀の子」で春。「馬」を「公権」と見て、体制を批判した句と捉えられることがあるが、馬に扮した子供の遊びを描写して「そこのけそこのけお馬が通る」としたと見る向きもある。
只いずれにしても、大が小を蹴散らす世界を詠みこんだことに違いはない。
https://yeahscars.com/kuhi/tomokakumo/ 【ともかくもあなた任せの年のくれ】より
ともかくも あなたまかせの としのくれ
一茶の名句|悲しみの中にたどり着いた境地
ともかくもあなた任せの年のくれ「おらが春」の最後、文政2年(1819年)12月29日の日付が見える小林一茶の句である。その「おらが春」には、下記のようにある。
他力信心信心と一向に他力にちからを入れて頼み込み候輩は、つひに他力縄に縛れて、自力地獄の炎の中へほたんとおち入候、其次に、かかるきたなき土凡夫をうつくしき黄金の膚になしくだされと、阿弥陀佛におし誂へに誂ばなしにしておいて、はや五體は佛染み成りたるやうに悪るすましなるも、自力の張本人たるべく候。問ていはく、いか様に心得たらんには、御流儀に叶ひ侍りなん。答ていはく、別に小むづかしき子細は不存候、ただ自力他力何のかのいふ芥もくたを、さらりとちくらが沖へ流して、さて後生の一大事は、其身を如来の御前に投出して、地獄なりとも、極楽なりとも、あなたさまの御はからひ次第あそばされくださりませと、御頼み申ばかりなり。如斯決定しての上には、なむあみだ佛といふ口の下より、慾の綱をはるの野に、手長蜘の行ひして、人の目を霞め、世渡る雁のかりそめにも、我田へ水を引く盗み心をゆめゆめ持べからず、しかる時は、あながち作り聲して念佛申に不及、ねがはずとも佛は守り玉ふべし、是則、當流の安心とは申なり、穴かしこ 五十七齢
ともかくもあなた任せの年のくれ 一茶
文政二年十二月廿九日
この文面に現れるように、「あなた」は「阿弥陀仏」である。この年の6月、授かった長女さとを亡くしているが、「おらが春」は、そのさとに捧げられるように記されたものである。浄土真宗の門徒であった一茶。年末を悲しみの中で迎えながらも、「ともかくも阿弥陀さまに全てをお任せいたします」と、その信仰を強くしている様子が伺える。
https://yeahscars.com/kuhi/koregamaa/ 【是がまあつひの栖か雪五尺】より
これがまあ ついのすみかか ゆきごしゃく
一茶のド根性魂が滲み出た句
是がまあつひの栖か雪五尺「七番日記」文化9年(1812年)11月項に、「是がまあつひの栖か雪五尺」として載る小林一茶の句である。この時一茶は50歳。故郷に骨を埋めるつもりで、11月17日に江戸を発ち、11月24日に柏原に入り、しばらく兵右衛門のところに寄宿した。柏原に入った当日は晴だったものの、翌日から2日間は雪。
この句は、「是がまあ死所かよ雪五尺」の句とともに夏目成美の許に送られたが、成美は、「死所かよ」には棒を引き「是がまあつひの栖か雪五尺」を「極上々吉」と評した。
「人生の最後にたどり着いたのは、こんなにも雪深い場所か…」といった意味になろうか。
まだ住む家が定まっていない状況にあったにもかかわらず詠まれた句であり、遺産相続問題などもあった。さらに、推敲の中で生まれた「是がまあ死所かよ雪五尺」を考えるに、あきらめにも似た響きを含む句である。けれども、人の背丈ほども積もった雪の中に最後まで生きていこうという、決意のこもった句でもある。