句作による気づきと癒し
一指李承憲@ILCHIjp
「本当の私」は他の誰かが見つけてはくれません。私の価値を見つけられるのは私だけで、私の価値を創造できるのも私だけです。私の価値は、誰かが認めてくれるからではなく、私が創造し、私が意味をもたせるから尊いのです。本当の私を見つけることから、すべてが新たに始まります。
https://dananet.jp/?p=9643 【『気づきの俳句──俳句でマインドフルネス──』(17)】より
吹きおこる秋風鶴をあゆましむ 石田波は郷きょう
一羽の鶴がジッと立っているのですが、そこへ爽やかな秋風が吹いてきたのです。すると鶴はゆっくりと歩み始めたというのです。作者はそれを見て、秋風が鶴を歩ませていると見て取ったのです。
雁かりがねや残るものみな美しき 石田波郷
雁が空を飛んで行っているのを見て、この地に残ってあるものはみんな美しいというのです。草も樹も、山も川も、みんないのちがあることに気づいたのです。そのときすべてのものが愛おしくなってきたのです。波郷は、この句を作った昭和18年に召集令状を受け取っております。そのときのことを波郷は、「その瞬間から人も物もすべてが美しく見え、思えて仕方がない。日本人の心の美しさはこれだと思った」と言っております。
意識が変わると、ものの見方が変わるのです。
戦地で肺結核を患い、清瀬の国立東京療養所に入院して、右肋骨四本の切除を伴う手術を受けるのです。
たばしるや鵙もず叫喚す胸きょう形ぎょう変へん 石田波郷
そして、自分のいのちを見つめるのです。
七夕竹惜しゃく命みょうの文字隠れなし 石田波郷
その後、退院し、軽井沢などにも遊びに行けるようになります。でも肺活量が少ないため、ゆっくりとしたペースでしか歩けないのです。みんなとは後れてゆく自分を見つめて句にしています。
泉への道後れゆく安けさよ 石田波郷
雪降れり時間の束の降るごとく 石田波郷
次から次へと降ってくる雪を見て、それはまるで時間が束となって降ってくるようだと思ったのです。雪から導き出された時間への気づきです。そして、時間の集積である自分の一生へと想いを馳せていきます。
今生は病む生しょうなりき鳥とり頭かぶと 石田波郷
石田波郷は、「肉体の呼吸と共に常に精神の気息をもたらすのが作句の心である」と言っております。
我、いま、ここにおいての思いが一句に込められているのです。
また、「俳句を作るといふことは取りも直さず、生きるといふことと同じなのである」とも言っております。
今年は石田波郷没後50年になります。その「石田波郷回顧展」が俳句文学館(新宿区百人町)で11月24日まで開催されております。
* * *
私たちは春夏秋冬の移ろいのなかで暮らしています。俳句は、悠久の時間の流れのなかにあって「いま」という時間と、私たちの目の前に広がっています空間における「ここ」という断面を切り取って詠みます。
芭蕉は、「物の見えたる光、いまだ心に消えざるうちにいひとむべし」と言っております。この「物の見えたる光」に気づき、それを受け止めて十七音にしてゆくのです。 そして、「物の見えたる光」を受け止めるには、正しく見るということが必要になってくると思います。それを俳句として正しく語ることよって心が解放されていくのです。
石嶌 岳(俳人)
https://dananet.jp/?p=9798 【「日本の叡智とマインドフルネス」熊野宏昭×鎌田東二 Zen 2.0レポート(6)】より
熊野宏昭先生・鎌田東二先生
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2019.12.13
9月21日と22日の両日、禅とマインドフルネスについての日本初の大規模な国際フォーラム〝Zen 2.0〟 第3回が、日本の「禅」発祥の地、鎌倉五山第一の建長寺において開催されました。その内容を紹介していきます。
鎌田東二先生を、「日本の自然が人の形をとって現れたような方、八百万の神に連なる方」と親しみを込めて評する熊野宏昭先生。鎌田先生の「法螺貝」の演奏を合図に、お二人によるマインドフルネスの講座、対話が始まりました。前回の熊野先生の問題提起に対し、今回は、鎌田先生によるその応答です。
熊野宏昭(くまの・ひろあき):早稲田大学 人間科学学術院教授
マインドフルネスやアクセプタンスを活用する認知・行動療法によって、短期間で大きな効果を上げることを目指した研究を行っている。
鎌田東二(かまた・とうじ):哲学者、宗教学者、上智大学グリーフケア研究所特任教授、京都大学名誉教授。著書に『宗教と霊性』ほか多数。
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文責:ダーナネット編集
近年「神話詩三部作」を上梓した、詩人でもある鎌田先生
鎌田東二先生から熊野先生へ
「完全受動態」。これは、鎌田先生のご著書にある言葉だそうですが、この、努力をなくして〈完全受動〉になれるところには、どうすれば辿り着けるのか――。
問題は、鎌田先生の言う〈身心変容技法〉(*身体と心の状態を望ましいと考えられる理想的な状態に切り替え変容・転換させる知と技法)。そして、見ている自分が無い状態にしなければならない。これが大きな問題となってくる。熊野先生はそこに着目され、問題提議がなされました。お二人共通の重要なテーマです。
――さて、熊野先生の問題提議を受けて、鎌田東二先生のお話が始まります。
鎌田:熊野先生、ありがとうございます。では、お話させていただきます。
利口(りこう)――くちきき
「完全受動態」。おっしゃるように、これ自体が人間性の探求、自然の探求の極意になってくると思います。この観点を一つのきっかけにお話を始めます。
それは「利口」ということです。一般的に現代では、利口とは、知的なレヴェルでの評価になります。しかし、松尾芭蕉の言った「利口論」とは、これは藤原定家からの流れを汲むものですが、現代の解釈とは違い、これは非常に大きな考えるヒントとなるものです。
「利口」。これを私は「くちきき」と読んでいます。要するに「口利き」が出来るかどうか、これが問題になってきます。「利口」は、自分が主体ではない。「利口」とは、誰かの言っていることを利(き)くことができるか――「利(り)」という字は、利くという意味です。聴覚のみならず、味覚。味を利く。酒の味を利く。という言葉もあります。
いろんなものが発しているメッセージを利くということなのです。そして「口」はいろいろなもの(モノ)。いろんなものが言葉を発している。これは、「古事記」の中でも、「草木が言問う」(草木が言葉を発している)という言い方がされています。そういう言葉を聴き取れないと利口にはなれないということなのです。
松のことは、松に聞け
「松の事は松に習へ 竹の事は竹に習へ(中略)習へと云は、物に入てその微の顕て情感(かんずる)や、句となる所也」(服部土芳『三冊子』1702年刊)
ここに、完全に口利きとなった姿があります。松のことは松に利かなければならない。竹のことは竹に利かなければなりません。
こうして鎌田先生は、日ごろから愛用する竹製の横笛の作者が、竹との対話(利口)を通して楽器を制作するエピソードや、ご自身が、アイルランド・イニシア島の海岸で、或る石と出会い、その石が発する言葉を利いて石笛にした、という〈口利き〉の思い出を語りながら一曲演奏を披露して下さいました。
「竹のことは竹に」の思いを込めて……。
日本マインドフルネスの原点の発見
完全受動態になる、完全な利口になるためには、「素直に従う」という態度が必要です。なるべく自分を消す。しかしそれが無理やりになると、また邪念が入り、制限ができてくる。
『古今和歌集』(延喜5年/905年)紀貫之の「仮名序」に、日本のマインドフルネスの原点を、一つの歌の哲学として見事に指し示した言葉があります。(*1)
「~生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける(歌を詠わない〈もの〉が何処にあろうか)。(かれらに詠われた歌は)力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思わせ(る程の力を持つのだ)~」
「あらゆるものが、言葉を発し歌を詠っている。その歌は、力をも入れずして天地を動かしているのだ」。そしてその歌には、鬼神すら「あはれ」の心を起こし安心の世界をもたらすものなのだ、と言うのです。
「マインドフルネスは、天地を動かすことなのです」と明言する鎌田先生。これは、自分でコントロールするという意味ではなく、天地万物の「気」、ちからに一体化しながら融け込んでゆくことなのだ、とも。ここでいう「力をも入れずして天地を動かす」状態が、「完全受動態」といってよいでしょう。あらゆるものを安心させて安らがせることが出来るちからです。
*1 「和歌(やまとうた)は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事(こと)・業(わざ)しげきものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひだせるなり。花に鳴く鶯、水に住むかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地(あまつち)を動かし、目に見えぬ鬼神をもあわれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士(ものゝふ)の心をもなぐさむは、歌なり」(佐伯海友校注、岩波文庫)
すべてのものは歌を詠う
40億年前に原始生命が誕生したとされていますが、それから現在に至るまで、原子の構造も遺伝子の構造も変わらないと聞いています。この変わらない構造というものが、我々の中に「懐かしさ(ノスタルジー)」として内蔵されているし、セットされているのでしょう。
だからこそ、ものの声を利くことができる。宇宙の声を利くことができる。我々自身は、完全に利くことが可能なはずなのです。そういうものの声を、どういう「(表現)回路」を通して、チャンネルを持って利いてゆくかということを、紀貫之、「新古今和歌集」の編者・藤原定家、俳諧を編み出した松尾芭蕉などが、その技法(ワザ)を俳諧や和歌を通して伝えてくれました。我々一人ひとりも、このワザ「表現技法」をぜひ持ちたい、それが今日の提案です。
〈俳諧〉とは、その文字を分解すれば、「〈俳〉人に非ず(すべての生きものが)、〈諧〉皆、言う」ということです。
諧という文字は、ハーモニーという意味があると同時に「皆、言う」、ハーモニーというのは、すべてのものが歌を詠っているということです。その歌をちゃんと利ける。そして歌を詠っている状態に皆もなれる、自分もなれる。それが「諧(皆、言う)」です。
そういう俳諧の精神が、完全受動態に近い心だ。日本の、そして本来の「マインドフルネス」なのだ、ということを松尾芭蕉はその俳諧哲学を貫き示してくれました。こうして、日本人の身心変容技法は俳諧に極まったのです。この宇宙的で、言霊と感応するようなワザ、そういう俳諧の持つ奥深い精神性、霊性的基盤を我々は汲み取って、「今を生きる力」にしてゆきたいと私は期待し、また信じているのです。
――そう、鎌田東二先生は、力強く私どもの進むべき道を示してくださいました。(了)