Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

『この世界の片隅に』

2016.12.22 06:12


















やりきれない悲しさ







映画『この世界の片隅に』を観た。






冒頭の画から、とても優しい色合いのアニメーションで始まる。






戦争を題材にしているのに、とても色彩にあふれている。




ピアノの音が弾むように歌う。






「のん」さんの声が圧倒的に透き通っている。




可笑しくて、やわらかくて、ときどき強くてやさしい。ただそれだけで涙があふれてしまっていた。






70年前の世界に、今の僕らはノスタルジーを感じない。




呉市の景色に馴染みはない。




当時の悲惨さは、歴史を通して知っている。






特別なストーリーはない。




ちょっと変わってるけど、当時の「ふつうな」一人の主婦の日常を描いた映画。






なのに、どうしてただ戦中の日常を描いた作品に、これほど涙してしまうのだろう。




















記憶と風景







70年前の風景を、知っている人は少ない。




戦争で焼ける前の街、焼けた街。原爆が落ちる前の広島の街。その当時の日常。






戦争の記憶はなく、知識や情報として僕らはその当時のことを知っている。






だけど、自分ではどうしようもないものに命を奪われ、人生を奪われる感覚、何もかも無くなってしまった町に、2011年以降の僕らはどうしても既視感を感じてしまう。






映画の制作者にその意図はないという。




それは、当然のことで、天災である地震と、人災である戦争を一緒にしてはいけない。






でも、声の主が「のん」さんであることで、余計にその連続性を感じてしまう。




『あまちゃん』で主役を演じきった彼女が、再びここで「やりきれなさ」の体験を声で演じている。






多くの人にとって、身近ではないはずの、目をつむりたくなるような当時の日常に共感できてしまうのは、そのせいだと思う。






『あまちゃん』のなかで、僕らはこの物語の先に何が起こるか知っていた。同じように『この世界の片隅に』の物語で何が起こるかを知っている。






ちょうど、落ちるのが分かっているジェットコースターに乗っているように、ゆっくりと巻き上げられて、上に上にと進む。




僕らは落ちていく感覚を、身体の記憶の中に持っている。だから、それを疑似体験できる。






当時の風景は知らなくても、当時の知識に乏しくても、身体に刻まれた感覚は、昔も今も変わらない。だから、彼女らが見た風景に共感できる。
















「ふつう」であること







ヒロインの女性は、「ふつう」の感覚をとても強く持っていた。






とても、のんびりしている。




なんでもない、ふつうの女の子。ふつうの女性。




誰もが、その言動におかしみを感じ、親しみをもって見守る。




ときどき、あまりの間抜けさにあきれながらも。






何でもないふつうの主婦の話だからこそ、描くのはとても難しい。




その平凡な日常を彼女の視点で描きながら、何かがおかしい世界を今の私たちに見せている。






ふつうじゃないときに、「ふつう」の感覚を持ち続けることは、難しいことだ。




それを保ち続けた彼女は、そのことに気づいてしまう。










生きていて、よかった。








家が燃えなくて、よかった。








怪我の治りが早くて、よかった。










そんな「よかった」は本当にふつうなの?私にはわからん。




『この世界の片隅に』






知らず知らずのうちに、気づかないようにしていたのに、大切なものをたくさん失ってしまった。




悲しくてやりきれない。その「やりきれなさ」を、とても強くかんたんな言葉で、強い衝撃ととともに与える。そこで、堪らなく涙があふれた。






ふつうの日常が描かれているはずなのに、ふつうの日常が奪われているさまを、見せつけられてしまった。






心理学者の中井久夫は、その著書の中で、






戦争は進行していく過程であり、平和は状態である。




過程は理解しやすく、ヴィヴィッドな、あるいは論理的な語りになる。




これに対して状態は体面的で名付けがたく、語りにくく、つかみどころがない。




『戦争と平和』p.8






と述べている。






戦争反対の言論は、達成感に乏しく次第にアピール力を失いがちである。




平和は維持であるから、唱え続けなければならない。




『戦争と平和』p.16






とも。






この感覚を忘れないようにしたい。




戦争の悲惨さでもなく、憎しみの醜さでもなく。






ふつうでない世界で「ふつう」であり続ける感覚を。