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日の移ろい

2016.12.22 03:28


















日常の記録







日記を書く。




生活の記録をつける。




旅のノートを書く。






そうした日常は、後に形になって残る。読み返すことができる。






紙でもブログでも、それは変わらない。






でも、その記録をのちに見ることになるのは、自分だけとは限らない。






机の中にしまわれた日記は、何年後かに母親が見つけるかもしれない。




引っ越しのときに恋人に見つかるかもしれない。




死後、子どもたちが見つけるかもしれない。






ブログは、一般に公開していれば、だれでも見ることができる。




若い時に書いたブログを見て、あまりの青さに思わず赤面してしまうかもしれない。




学生時代のブログが会社の先輩や同僚に見つかって、からかわれるかもしれない。






だから、残さない。刹那的に残す。




そんなサービスが若い人たちのあいだで流行っている。






いつまでも残らないメッセージ。秘密のメール。




すぐに消えてしまう写真、日常の記録。






そうした日常は残らず、消えてしまうのだろうか。















現れては消える







でも、いま目の前にある日常が消えていくことは、当たり前のことでもある。




物に込めた思いはそれが無くなればいずれ忘れてしまう。




紙に書いた記録も、あわただしい日々のなかで忘れ去られ、消えていく。






”それらが形になって残ること”のほうが普通ではないことなのかもしれない。






どんどん世の中には情報がストックされていく。






日々の記録もどんどん、残しておくことができる。




紙も、データ化してしまえば嵩張らない。






僕たちが日常だと思って記録している日常は、それを書き記した時点で、本当に起こった出来事とは異なるものになっている。




全てを書き留めることはできないからだ。




忘れ去られた、書かれなかった出来事がその日常からは抜け落ちていく。



















その積み重ねをのちに見返したとき、それを思い出したとき、僕たちは別のものを僕らの日常として認識している。






とても曖昧で不明瞭で、間違った「情報」だ。




間違った情報を不必要にストックすることはない。正しい情報だけがあればいい。




だから、それらはすぐに消えるものであればいい。






もちろん、日常を「情報」として扱うならば、という仮定の話だ。




日常に思ったことを綴るのは情報を残すためではないし、だれかに正しいことを伝えるためでもない。






自分がそのときもっていた感覚と能力で、自分のなかにある曖昧で不明瞭なものを捉える。




ただ、それだけ。




目的がなくても。何の役に立たなくても。間違っていても。




きれいな物語にしてしまえばいい。全部嘘でもいい。






僕たちが生きてきた痕跡は、僕たちが自由に残すことができる。




その自由だけは、奪われてはいけないものだ、と思った。