偉人『エドワード・エルガー』
イギリスのクラシック界においてヘンデル登場から150年間イギリス人作曲家が登場していないのをご存知だろうか。そしてその150年の時を経て登場したのがエドワード・エルガーであり、晩年は実績を評価されナイとの称号まで得ている。
イギリス第二国歌『威風堂々』はイギリス国内は勿論、アメリカの卒業式の入場曲に使われ、ドラマの挿入かとしても日本ではお馴染みである。また彼が妻アリスに贈った『愛のあいさつ』は甘美で慈しみに溢れている、そして彼が困難なときにでも生み出した傑作の『チェロ協奏曲』も聴く価値があるものばかりである。
しかし彼がここまで評価されるまでには順風満帆ではなく紆余曲折があり多くの時間がかかった。今回は彼が遅咲きの音楽家といわれる所以を紐解きながら育つ環境を考えてみる。
彼が生まれたのはイギリス中部のウスター近郊の田舎町で1857年6月2日に生まれた。父はウィリアムはピアノの調律師をしながら楽器店を経営し、母はアンは農家の娘であったが子供達に文学的学びを行い、エルガーは7人兄弟の4番目の子供であった。
ウスターは音楽が盛んな土地柄であったがエドガーは父から音楽教育を受け、教会や楽器店に通う奏者の演奏を聴き育った。8歳から10歳の3年間で音楽的要素を図書館の本で学びこの頃に作曲をするなどした。音楽的才能を有していたが経済的理由から本格的な音楽教育は殆ど無く、ロンドンでヴァイオリンを習った程度である。16歳で法律事務所の事務職に勤務するも音楽活動を諦めきれず、父の店でオルガニストの助手として働き、州立病院でヴァイオリンの講師、教会や合唱団での指揮など様々な音楽に関する仕事を行ったのである。その中でもドヴォルザークの指揮の下演奏したこともある。街自体にヘンデルが作ったオラトリソの文化が専門的教育が無くとも才能を開花させる一助になったと言える。
また母の文学的働きかけにより彼の作品に詩などの文学が深く関わっていたことが分かる発言が残されている。「私は作曲の仕事を昔の吟遊詩人のようなものだと考えている。当時は人々の前に行き歌で活気つけたりしたものだ。今音楽で何かを祝いたい人がいることを私は知っている。私はそういう人達のために作曲をする」
彼の作品を見れば多種たような作風が繰り出されていることに驚く。ある人が彼の作品をおもちゃ箱から出てくるあらゆるおもちゃとして例えていたがその通りである。『威風堂々』もシェイクスピアのオセロから取られた作品であり希望や栄光にを捉え、『愛のあいさつ』では慈愛と安らぎに満ち、『エグマニ変奏曲』については自分人を含めた身近な人々に準えて、『チェロ協奏曲』では二人三脚で歩んできた妻アリスが亡くなる数年前に作曲した作品で深い愛情と憂いや悲しみのなどエルガーの心情が揺れ動くのを実感できる作品である。彼の作品には幼き頃に母から文学的影響を受けた影響としか思えない多くの詩情的な作品が残されている。
エルガーにとって正式な音楽養育を受けない形でオペラ以外の曲を多様に作曲した人物も無く、教会でのオルガニスト、ヴァイオリンを町で教え、グリー・クラブの式や伴奏、オーケストラの指揮など街で音楽の下地を作り、やがて遅咲きの音楽家として花咲き世界的な音楽家として登りつめた。生まれた家庭が土台にあることは間違いないが、エルガーの場合には生まれた場所や環境、宗教的な影響が彼をあらゆる音楽的活動へと参加できる機会を与え育んだ。やはり脈々とその土地が育んできたものが人を育てることもある。もし音楽が希薄な土地に生まれていたならば私が好きな交響曲第一番を耳にすることはなかったのかもしれ無い。