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客観芸術と主観芸術

2023.12.24 13:38

Facebook・清水 友邦さん投稿記事 「客観芸術と主観芸術」

芸術には客観芸術と主観芸術の二種類があり芭蕉の句は客観芸術と言われています。

2018年に松尾芭蕉ゆかりの京都落柿舎と臨終の地の大阪の御堂筋、そして、無名庵とお墓がある大津の義仲寺を訪れました。

芭蕉は激しい下痢と悪寒、震えを伴う病に倒れ1694年11月28日(旧暦10月12日)に大阪の御堂筋で最期を遂げました。

遺言により木曽義仲の墓所がある大津の義仲寺に葬られました。

芭蕉が亡くなる4日前に詠んだ最後の句碑が義仲寺にたっています。

「 旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る」芭蕉の句には沈黙と静けさがあります。

「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」という出羽国(現在の山形)の立石寺に参詣した際に詠んだ句があります。セミが鳴いていれば静けさがないはずですが芭蕉の句は静けさがあります。

この静けさは物理的な音がするしないの静けさではないようです。

有名な「古池や 蛙飛び込む 水の音」水の音が詠まれていますが深い静けさがあります。

二元性を超えた静けさを芭蕉は句で表現したのです。

神秘家グルジェフは芸術には客観芸術と主観芸術の二種類があるといいました。

主観芸術とは偶発的で機械的な衝動により生まれた主観(自我)が入った芸術で創造ではなく排泄だと言っています。

自我の創作行為は主観芸術であり、人体の生理と無意識の影響から逃れることはできません。

何らかの原因で発散されなかった衝動や心の葛藤を芸術で表現するのが主観芸術です。

主観芸術は自我の投影であり、その作品は自我の排泄物なのです。

自我芸術と言っていいかもしれません。

グルジェフは意識を、通常の覚醒状態、睡眠、自己意識、客観意識の4つに区別しました。

通常の日常意識の覚醒状態とは、目が覚めているという夢を見ている状態で、自動的な機械のように人は振る舞っているので、夢見る機械人間と呼ばれます。

そのために客観意識を獲得していない夢見る機械人間は、客観芸術に出合っても主観芸術と同様とみなしてしまうので客観芸術を見分けることができません。

この夢見る機械人間の芸術が、主観芸術です。

客観芸術は、主観を超えた深い沈黙から生み出されます。

客観芸術は自我を超えた本質に気付かせるものです。

忘却している永遠の客観意識を想起させる芸術です。

深い沈黙はもともと誰にも備わっています。

その沈黙に気付かせてくれるのが客観芸術なのです。

https://note.com/oroshiskiy/n/nb2f9933f38a8 【主観芸術と客観芸術】より

最近、「表現の不自由展」が話題ということもあって、ロシアの神秘家、ゲオルギー・グルジェフの芸術論に触れながら、noteに書き残しておこうと思います。

芸術には「主観芸術」と「客観芸術」がある ゲオルギー・グルジェフによると、芸術は2種類あるそうです。「主観芸術」と「客観芸術」です。

主観芸術はたまたまできたもの

近代的な絵画や音楽や彫刻や建築など、私たちが普段目にする芸術のほとんどすべては、「主観芸術」の作品であるという。それらは、個人的な感情や美意識を表現する試みであり、「自己主張」と「自己表現」の産物である。

これをグルジェフは、そんなものは芸術の域に値しないと語っています。

子供の頃から培われた機械的な好き嫌いで構成されるのが「主観芸術」であり、それは流行、気まぐれ、モノマネの欲求などで簡単に左右されます。そして、たまたま生まれた奇抜さや珍しさが、「創造性」「独創性」と呼ばれるものの正体です。

主観芸術の作者が感覚を知覚する方法、感覚を表現する形式、それを見る人々がその形式を知覚するやり方はすべて主観的です。機械的な衝動によって、芸術家の内側から呼び起こした作品は全て偶然であり、鑑賞者にとっても偶然的な印象を残す。

よく「芸術の素晴らしいところは評価が主観」と言われるが、観る人それぞれのレン層によって印象を受けるので、当然でしょう。同時に作者にとっては、自分の作品が人に与えるのか想像ができません。

作る人も主観ならば、見る人も主観に過ぎないからです。

真の芸術である「客観芸術」は同一の印象を与える

真の芸術には偶然的なものは何もない。それは数学だ。その中の全ては計算でき、前もって知ることができる。芸術家は自分の伝えたいと思うものを知り、しかも理解しており、彼の作品は、鑑賞者を同一のレベルの人々と仮定すれば、ある人にはある印象を、別の人には別の印象を与えるということはありえない。それは常に、数学的な確かさで同一の印象を生み出すのだ。

グルジェフが真の芸術という「客観芸術」とは、その作品に対する作用は絶対的に一定で、常に明確な印象を与えます。天文学や化学について書かれた本のようで、呼んだ人によって印象が変わることはありません。

エジプトのピラミッド、スフィンクス、インドのタージマハル、アテネのパルテノン宮殿などが代表的に客観芸術とされています。

インドの宗教家OSHOが分かりやすく表現していますね。

主観芸術を「それはその人のフィーリングから来ている。 絵画にも、詩にも、音楽にもある」一方、客観芸術は「あなたのハートの空から来る。 あなたはただの笛に、中空の竹になるだけ、 あなたを通じて歌うのは宇宙だ」

「観る人によって印象が変わる」のは本当に芸術か?

最近は政治性などのメッセージだけが先行して、クオリティに疑問が残る作品が多く、芸術に関して疑問を感じているところで、この動画を見ました。

(略)

芸術に関しては様々な考え方はあると思いますが、個人的には「観る人によって印象が変わる」というのは、作者や観覧者側にとって、非常に都合のいい話を言っているだけで、正直不快に思うことが多いです。

作りが粗く、作者の鍛錬を感じさせられない作品は見ることはありますが、そういった作品が並べられるのは、技量などの評価基準が壊れてしまい「芸術は人で変わるから」という言葉で濁してしまうことがあります。

これは「形になっていないものでも多数で持ち上げたら芸術」として扱うことも不可能ではないと感じられます。それは本当に「芸術」という枠で考えて良いのでしょうか?

https://note.com/natsuk0/n/n1087e2ad35f3  【季語というコミュニケーションツール】より

入門書には「日常の中の些細な感動を句にしてみましょう」といったスタンスのものも少なくなく、この場合、感動した自己は日常の自己から一歩も「虚」へと離れることがないまま、その感動を物語ってしまうことになるので、じつは上達にはほとんど結びつかない。その自己を最低限、他者性へと開くのが「季語・季題を入れること」という約束事なのである。俳句の前身は俳諧体の連歌における最初の句「発句」であり、発句の詠み手が自分の話しかしなかったら文字通り二の句が継げなくなって、脇句以下が続かなくなってしまうのだ。

(『俳句という他界』関悦史)

「季語」で、共有できるもの、事柄を確保することで、コミュニケーション(二の句)へつながっていくということでしょうか。

現代俳句協会50年に企画されたという歳時記には、「無季」がもうけられています。金子兜太氏が、「序にかえて」というテキストで「無季」の収録について書いています。

歳時とは一年中の出来事であり、仕事の謂である。近代から現代へと私たちの生活は、海外からのさまざまな文化・文明を受容し消化しながら、拡大し複雑化してきた。それにともなって言葉も多様化し、季によって整理される語が増加する一方では無季の語も増えている。季語を増加させながら無季語をも収録していく、それは自然な行為であって、歳時記のあるべき姿なのだ。

(『現代俳句歳時記 無季』から)

「無季」では、例えば、次のような言葉があげられています。

「青空」「未来」「昭和」「結婚」「耳」「難民」「自転車」「人工衛星」「平和」…

もう逃さぬ人工衛星が廻りおる

仁智栄坊

いわゆる「無季」俳句でも、共有できるもの、事柄があるならば、俳句という短いテキストでのコミュニケーションが成立しうるということでしょうか?

俳句は飛躍と断裂の驚異によって自己や因果律を離れ、その上で他界的なものを含みつつ再統合を果たすものなのだ。

(『俳句という他界』関悦史)

なんとなくわかるような…。でもやはり難しいです。

まずは「季語」を学んでいきます。