俳句は人間を詠うもの
https://kanekotota.blogspot.com/2016/08/blog-post.html 【「俳句は人間を詠うもの」金子兜太】 より
「わたしの骨格自由人」 金子兜太 インタビュー 蛭田有一 NHK出版
―ひらめいてから俳句が完成するまで、どのくらいの時間がかかりますか。
さまざまですわ。その場でできる場合があります。時間がかかる場合もあります。例えば、具体的な例を引くとわかるかな。 「彎曲しか働し爆心址のマラソン」という長崎でつくっ穴句の場合なんか、社宅の、公舎といったらいいな、そのそばが爆心地なんですよ。
わたしは、「短歌研究」という雑誌から原爆の句をつく゜でこいと言われたんですよっ早速つくれとハッパをかけられて、暇があれば歩き回ったんです。
そうしてるうちに、谷間のようなところですが、山の向こうからマラソンの連中が走ってくる、そして爆心地に入ってくるっ途端にみんな焼けたれて体が歪んでぶっ倒れでいくヽ彎曲し、火傷し、爆心地、、いう映像が出できたんですよ。さでこれをどう俳句にしようかと考えたら、なかなかできなかった。やっぱりヽ現地を歩き回っていればできるだろうという期待感があって、毎日歩きました。
そうしているうちにヽ三日ほどたったか、夜、苦し紛れに字引を繰っていたんです。そうしたら「彎曲」という言葉が目に入っ穴っ途端にパッとできた。そして「彎曲し火傷し爆心地」、あの句ができたんです。
映像ができるのに若干時間がかかるけれども、映像が国まとまり文字になるのに、やっぱりある程度の時間がかかる゜そういう体験はずいぶんありますね。
それから、「酒止めようかどの本能と遊ぼうか」なんて、あんなのは俳句かどうかわかりませんけれど俳句だとして、あの場合は咄嗟にできました。痛風で、酒をやめろ、肉をやめろと言われた、さでどうしようか、と思った途端にパッとできた。いろいろ場面によりりますね。
―完成した俳句を半年後、一年後にやっぱり直したいということはないですか。
わたしの場合は不思議にそれはないですね。ただヽ数日間のあいだにそういうふうになるる場合は結構ありすね。この言葉を変えたいとかね、それはありますな。
「梅咲いて庭中に青餃が来ている」なんてヽあれなんかもずいぶんいろんな批評があっただんです。それをいくら聞いていても直そうという気にならなかったですね。だから、ずっととあのままです。
総合的に考えると、時間がかかってできる句も少ないし、でき力句を直すということちほとんどない。また、、即座にできる句も少ないですからまあ一日か2日ぐらいでまとまるというのが常識かな。
――金子さんの俳句は、いつどんなときにできるんですか。
わたしの場合は、三時か四時ごろの夜明けどきですね。夜明けどきにみる夢はイヤな夢が多いんです。もうこれはここ五、六年ですけど。イヤな夢が出るのがわかってきたから、待ってましたたというような気持で、夜明けどきに俳句をつくろうとするんです。
そうすると、最近では、不思議にそこで夢が出なくなって、俳句づくりになるわけです。そういうかたちで、どこかで見たり感じたことがまとまるということが、最近多くなりまし九ね。
――夜明けといっても結構早い時間帯ですね。
オレが夜明けというのは、三時か四時ぐらいですね。その問にひどく停滞してイヤな夢をみることが多い。四時過ぎると今度はフーッと戻って非常にいい夢になってくるんですよ。そうやって目がさめてくるんです。その停滞する時間帯が長年にわたってあったんです。
その時間に俳句をつくろうと切り替えたら、結構うまくいって、いまはその時間に俳句ができるんですよ。おう―、きたきたとひらめいてくる場合もあるし、思っているうちにだんだん、まとまってくるとか、いろいろなかたちですね。
昼問、見でいた印象が出てくるわけですね。そのうちにいい知恵が出てきますからね。 だめなのものも、もちろんあります。それは朝、机の前で直すとか、二、三日おいて直すとか。だから、紙っぺらに書いてたくさん持っているわけです。
――金子さんの名句が生まれた場にも興昧がありますが。
例えば「梅咲いで庭中に青餃が來ている」はここ(自宅)に立って見て、あツと思った。一帯が青い海の底みたいな感じで、梅が咲いていて、ああ春だと思ったら、鮫があとがら出できた。そういうのがフーッとできた。
「酒止めようかどの本能と遊ぼうか」も痛風で、特効薬があるんですよ。注射を打ってくれて痛みが取れて、酒飲むなとか何とか言われているうちにできた。
――時間がかかったからいいものができるというわけでもないですね。
絶対にないですね。これは短詩型の強さだし、小説家に聞いても、いいアイディアというのは考えてでさる場合だけじゃないと言ったな。ひらめきでいいアイディアができる場合かある。嘘八百が出でくる場合かあるらしいね、アイディアとして。その嘘だらけの着想というのが面白いという場合もある。
――これから俳句をやろうとする人たちに俳句の魅力をどう伝えたいですか。
感覚。初心者に向かっで、感覚を大事にしてくださいって、何べんでも言ってるつもりです。やってる人にもやってない人も。わたしは、人生全体がそうだと思ってるぐらいですからね。
虚子のいう花鳥諷詠論というのは、あれは感覚という要素は消えているでしょう。むしろ、花鳥諷詠は、理屈で出できた俳句のつくり方でしょう。自然に従い、自然とあい睦んでつくれというわけですよね。これは、どこか田舎のおっさんの言っているヤボな寝言しかわたしには聞こえないんだけどね。そうじゃなくて感覚でつくりゃいい。ボタンの花かあったらボタンの花を感覚したままにつくればいい。わたしはそう思っている。それが一番大事。
ヤボな考え方は持つなと。
――「オレは俳句である」を、逆に「俳句は金子兜太である」とも
言えますか。
そう思っています。非常に借越なことになるからそうは言わないけど、自分ではそう思っています。そういうのがこの賞をもらっておかないとおかしいと思ったりね。
――俳人・金子兜太を育んだのは故郷の秩父と言っていいですか。
そうそう。オレを育んだのが産土神秩父と言うことですね。秩父の土のエネルギーをますます感じますね。秩父の山中を車で移動する時など、車中でうたた寝をする問も、両側に続く緑の濃い山が、いまでもずーっと自分のうたた寝を支えてくれているという感がありますしね。懐かしいですね。
青年期までは、貧しいこんな地帯で医者になるのもイヤだと。こんなところにいたのでは、お金に追われて医者の仁術が施せないと。そう思っていたんですけど、いまにしてみると、秩父というのはいい風土、いい土の上にわたしは育つことができたと思っています。
――金子さんは常に俳句を通して何を表現しようと思つているんですか。
人間および万物の存在の美しさ……結局は存在ということの美しさ、確かさそれがオレの求めていることになるのでしょうね。さっきの自由人でありたいとか、そういうことも一緒にあるわけですけれども、根本で求めているものは何かと問われれば「存在」です。その存在をたしかに支えてくれているのが土。
だから、土と存在というのはわたしにとってはイコール。したがって、存在の根っこは産土神秩父ということになるのですけどね。逆にいうと、存在ということを承知できたのも産土神秩父が自分を育ててくれた基本である、ということを承知したときですよね。
それを一茶とか山頭火によって確認し力。人間の存在というのが基本であると。 戦後、俳句に思想という問題が出たときに、それが社会性というかたちで言われましたね。社会性は俳句に大事だと、これをどう考えるかといったときに、社会主義イデオロギーというのが大事だと言っ力人見いましたが、わたしは、そんなことじゃねーと。
社会性というのは態度の問題だと、生きでいく、生活していく態度の問題だと。そこに全部、イデオロギーを吸収して、態度としてそれをあらわすのでなければホンモノじゃないと。それを俳句にするということが大事だと言ったら、おおかた好評を得力んです。常に存在ということが中心だと。
イデオロギーなんていうのは、滅びやすいものであると。そんなものを
いたずらに信用していると振り回されちゃう、ということです。
――句を見ただけで「生きもの感覚」の持ち主であるかどうかはすぐ分かり
ますか。
これが分からないのはおかしい。「生きもの感覚」というのは簡単に分かるんじゃないかしら。まねようとしたら、一生かかってもできません。おのずからできる状態というのは、自分の内面を整えるしかないですね。
一茶のように、自分の内面がそういう状態になっていなきやダメなんですよ。一茶は、十六歳まで農家にいたでしょう。土と親しんでいた。そのことが非常に大きいと思うんですけどね。あの人の場合は、内面が、「生きもの感覚」に恵まれでいるんです。「原郷」というものが感じられるようになっているんです。だりで、「原郷」の最終的な住所は土ですもの。土にこそ「原郷」かおる。土があって、そこに大木が繁って、そこに人間という生きものがいた、そういう世界でしょう。全部、土の上に
形成されているわけだから。だから、農家の大なんて、その感覚に恵まれ力大が多いんですよ。
――そうすると、都会の高層マンションで育った大には理解し難いのではないですか。
つらいですね。体でそれがわかるという段階にいくことは非常に時間がかかるんじゃないでしょうか。芻のずからそういうものに恵まれでいる大もいますけどね。 やっぱり、環境条件があると思います。それは理㈲で求めでもダメなんですよね。それこそ、修行してこいと、座禅でもしてこいということになり哇すが、おのずからそういうものを得ないとダメ。
――人間が面白くなければ俳句は面白くないとおっしやっていますが、その面白い人間とは。
それは、「荒凡夫」と言える大が面白い人間だ。その人間は、一方じゃ欲の塊ですからね。煩悩の限りを尽くしで一生懸命生きているわけですね。けれども、その人の感性の世界は、非常に透明で美しいわけですね。
そして「原郷」に達する、そういう感性の働きかおるわけですね。感覚が鋭いわけです。これが一番面白い大です。それを、気取っちゃって、オレは欲はないんだとか、欲は抑えているんだというようなツラをしてる大、これは面白くない。格好がついちゃっている。「生きもの感覚」だけがあっても、それは美しいですねと言うだけで魅力はない。
また、煩悩具足、五欲兼備だけじゃあ始末が悪いし、「生きもの感覚」のない人間も始末が悪い。悪いことをして生きていればいいということになりますから、これはダメとなりますわね。両方があると面白い。両方がよくわかって生きていられる大をわたしは自由人だと言っているのです。それが自由人の姿だと。
―― 一茶の句で、「生きもの感覚」に一番あふれているのはどんな句ですか。
一番というと困るけどね、こんな句ぱどうかね。「赤馬の鼻で吹きたる蛍かな」。赤馬が立っていて蛍が飛んでいるわけですね。ブーと鼻を鳴らしたらスー″と蛍が飛ばされた。 この即物的な風景というのは、これは「生きもの感覚」の塊だとわ力しは思いますね。
赤馬というのはなんとなく印象が強いでしょう。あったかいでしょう。こういうところも一茶の目というのは尋常じゃないですね。普通の俳人だと赤馬なんて言わない。馬と言う程度です。あるいは、野の馬とか、立っている馬とか言う程度ですけど、赤い馬と言ったところがいかにも。しかも、軽いユーモアも感じられますよね。
こういうものを黙って書いでユーモアを感じさせるということでも、「生きもの感覚」かおるわけですね。鼻息なんてことで、それだけのものを感じさせるわけでして、やっぱり、一茶の持つ感性の質の高3なんじゃないでしょうかね。
――まだ他にそんな句はありますか。
「十ばかり屁を棄てに出る夜長哉」という句があって、わりあいにわたしがあっちこっちで言っている句です。かなかにガスがたまって、外に出でブーブーと十ばかり屁をして帰ってくる。 わたしは、田舎で子どもの頃、この風景は何べんか見てますからね。この句では、「十ばかり」なんて数をはっき息言うのは尾籠の塊だということになる。世間ではまことに汚らしい句だというのが常識なんです。だけど、この句ほど人間の温かみが感じられるものはない。
秋の夜の自然の爽やかさを感じさせる。こういうのが「生きもの感覚」に通じでいる句だ。屁を通じで「生きもの感覚」で人間と自然とが通じ合っている。人間同士が通じ合っている。みんな生きものですからね。「十ばかり屁を棄てに出る夜長哉」なんていうのは「生きもの感覚」の最たるものだと思いますね。
人間という生きものが正直な姿で書かれてくるわけですよ。美しい純粋な姿で。
――自分の句が、歳を重ねるごとに進化していると感じますか。
進化なんて考え方は全くないです。変化している。変化はあります。進んでいるとか、進まないとかいうことは全く考え九こと屯ない。変化がいいか悪いかは、後世の判断です。ひとのいう判断です。自分はそれでいいと思っています。
――これまで随分受賞されていますが、特にうれしかった賞は。
一番若いときにもらった現代俳句協会賞というのが、いま思うと一番うれしかった。神戸にいた頃でね、それが俳句専念に踏み切るきっかけをつくってくれたんですけどね。あの頃、神戸を含むいわゆる関西前衛といわれた、ちょうどオレと年配の近い連中が、みんな現代俳句を目指しで、戦後の社会を詠いあげる、現実を詠いあげるという俳句を日指してた。そういう連中がわんさといたんです。
わたしが神戸に行ったら、待っていてくれたように集まってきましてね、俳句懇話会なんていうのができて、実に盛り上がった雰囲気だったんですよ。西東三鬼も、永田耕衣も来てくれたり、そういう時代があった。
その雰囲気のなかでわたしが出した句集が『少年』だったんです。その句集『少年』が現代俳句協会賞というのをもらったんです。現代俳句協会はわたしがその後に属する協会でして、いまの俳人協会はそこから分かれてできたわけです。一番俳句界を代表する協会だったですね。あの賞をもらったときが一番うれしかった。
――俳句界で認められてうれしかったということですね。
そう思いました。というのは、総合誌が角川の「俳句」、あと、協会は現代俳句協会だけだったですから。その現代俳句協会から認められた。しかも、石田波郷とか、佐藤鬼房とか、わたしと一緒に能村登四郎とか、翌年になりますが、飯田龍太とか、そういう優秀な連中がみんなもらってます。だから、オレもこれで一人前になったなという思いがありましたね。
――今後、もっと大きな賞がほしいとは思いませんか。
わたしは、もともと、賞がほしいという思いがない男なんですよ。こんなものは自然にわいてくるものだと思っています。わいてこなければダメだと思ってます。だから、文化功労者に指名していただいたときも、これはでき過ぎだなあと思ったぐらいですし、それから、菊池寛賞などをもらったのもみんな、偶然だなあと思う。そうそう、NHKの放送文化賞をもらったのがちょっとうれしかったかな。俳句界の賞じゃないからね。
――後世に、金子兜太はどんな俳人だったと言われたらうれしいですか。
自由の俳人だったと言われればうれしいですよ。俳句そのものみたいなやつだったと言われてもうれしいですし。それから、俳句以外にとりえのないやつだったと言われてもうれしいです。
――あの世に行っても俳句はつくっているんでしょうか。
多分つくってるでしょうね。オレの場合は他に取り柄がねぇんだよ。また、これがわたしにとっちや強みですね。 前にも言ったけど、愛媛県が正岡子規国際俳句大賞というのを出しでいで、第一回目がイヴ・ボヌフォワ、三回目がゲイリー・スナイダー、四回目はわたしがもらった。イヴとか、ゲイリーとかいうのは立派な詩人ですからね。こんな人と比べられて、オレみたいな男がそんな立派な賞をもらう資格はない。なぜ、白分か日本人として、彼らと並べられるような賞がいただけるのかと考えた。そうしたら、わたし自身が俳句の塊だということに気づいた。そうなったら、自分の取り柄は俳句。金子兜太イコール俳句という、この状能がオレの特徴でもあり人に誇るべきものであると。そう思ってその時そういうふうに演説したんです。
だったら、オレの死んだあとも、オレは俳句だ、俳句の塊だ、ほかに取り柄はねェと、その思いを持っている。だから、あなたにあの世で何をやるんだと聞かれること自身もシャクにさわるんだ。オレは俳句なんかから。その俳句に向かって、何やるんだと聞か幻るのは恥辱を感ずるんだよ。ほんとにそうなんですよ。オレは俳句なんだら。他に取り柄がないんだ。
―今後、日本の俳句界がどう発展していってほしいと考えますか。
全然考えていません。わたしは、そういうことを考えない男なんです。そんなのは、大それたことだと言いたい。大それたことだとも考えないです。普通だったらみんな考えるだろうと思いますが、わたしにとっちや興味がないです。
わたしは、自分の好きなとおりにつくって、これでオシャカになりときはそれでいいと。後世がどう評価するかというのは後世に任せればいい。こう思っています、偉そうに見えるけど。わたしの自由人たるゆえんじゃないかな。自分に自由人でありたい、ありたいと思ってきた、その関係じゃないかしら。
――今のお話で、金子さんの自由人としての姿勢が鮮明に伝わりました。
ありがとうございます。ただ、そう偉そうなことを言ったと同時に言えるのは、金子兜太の仕事が評価されれば、これはうれしいと思っていますよ。求めないけどさ、評価さいればうれしいというのは、もちろんありますよ。評価されたら困るとは全然考えない。これは間違いない。褒められて困るやつはいねIからね。