南方マンダラ
Facebook・清水 友邦さん投稿記事さん 「南方マンダラ」
南方マンダラ
南方熊楠は宇宙全体の構造を「この世は「物不思議」と「心不思議」、「事不思議」、「理不思議」「大日如来の大不思議」から成り立っている」と高野山の管長に手紙で書いています。
イロハニホヘトチリヌルオワが萃点(すいてん)
ヌとルは科学では捉えられません。
熊楠は南方マンダラで物質世界と非物質世界を含めた世界全体の現象を不思議といいました。
南方熊楠の全容を理解できる人はほとんどいなかったようです。
熊楠の興味は動物学、植物学の科学だけでなく宗教、哲学、社会制度、慣習、性風俗、心霊現象まであり、森羅万象を知り尽くそうというエネルギーに溢れていました。
そして熊楠はサヴァン症候群のような驚異的な記憶力をもっていたので、あらゆることに異常に詳しかったのです。
熊楠は早朝から那智の大自然の中で植物採集をして自分の研究を話す相手もいない毎日でした。
唯一、南方熊楠が心を開いて話せたのは、栂尾(とがのお)高山寺の住職をしていた(後の真言宗・高野山管長)土宜 法龍(とき ほうりゅう)でした。
ロンドン時代に二人は出会い、離れていましたが1903年7月~8月の間、密度の濃い書簡を交わしています。
熊楠は土宜 法龍(とき ほうりゅう)との書簡の中で宗教について論じ、仏教を高く評価しています。
仏教は釈迦が始めたのではなく、釈迦よりもずっと前からあったのであり「大日如来の法身(ほっしん)」が根元なので真言宗は仏教の一派ではなく、仏教が真言宗から生まれたのだと熊楠は語ります。
そして仏教を持ち上げる一方で「高僧を生き如来と持ち上げその風呂の垢水を一杯40銭で売ったり、はくをつけようとやくざ坊主を大枚はたいて海外に留学させたり、いまの坊主が卑猥なこと甚だしく、口とは裏腹に美女にうつつをぬかし、何かにつけて金品を要求したり、高利貸しまでおこなう。」と日本の仏教が堕落しきっていることを嘆いています。
大日如来(Mahāvairocana)は密教の最高位の仏で華厳経の毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ・Vairocana)と同一視されています。
大日如来は三つの性質を持っています。除闇遍明( じょあん へんみょう) はあまねく宇宙を照らして闇を取り除き、能成衆務(のうじょうしゅむ)はあらゆる物事を生起させ、光無生滅(こうむしょうめつ)は尽きることのない永遠の光です。
闇というのは光の不在のことで、仏教で煩悩に囚われていることを無明といっています。煩悩を打ち消す光のことを智といってます。般若心経の般若(プラジュニャー)智慧のことです。
すべての事象は泡のように、はかなく実体がないことを洞察する智慧(プラジュニャー)によって悩みや苦しみから解放されます。
光は全宇宙をあまねく照らしていますが自我は常に思考という雲で光を覆っているので大日如来の光に気がつかないのです。
思考は過去の経験から来ているので今ここにいられません。
熊楠は大日如来に過去や未来はなく、空間もないと理解していました。
那智時代に大自然の中で暮らしていた熊楠は変性意識状態を経験していました。
「布団かぶりあるに目の前明るし、それにあるものを見るに見えず、また布団のシワ等の影もなし、明るきこと水銀の如し」
思考が静まって瞑想状態に入ると臨死体験者が語るような光の体験をします。
それは尽きることのない永遠の光です。
「大日如来は天然に宇宙のみならず宇宙を包蔵してなんとも感ぜぬほどの大なるところに存するものなり」南方熊楠
大日如来はアートマン=ブラフマンや道教の無や万物を創生する神と同じ働きをもっています。
熊楠も釈迦も仏教も源流をたどれば大日如来から生じていると熊楠は言います。
「これをいう言うもの、誰がいうたからそのものの功名というべきにあらず」熊楠
自分が打ち立てたと思っているどんな素晴らしい説も大日如来の教えの一雫にすぎないのです。
あらゆる全ての現象は大日如来から生じているのです。
有名な南方曼荼羅の思想が生まれたのは土宜 法龍(とき ほうりゅう)との書簡によってです。
もし、熊楠の書簡が破棄されていたなら南方曼荼羅は世に知られることはなかったでしょう。
真言密教では究極の悟りを開くことを即身成仏(そくしんじょうぶつ)といっています。
空海はそれを「重重帝網なるを即身と名づく」といいました。
インドラの宮殿に幾重にも重なり合って張り巡らされた網には、無数の宝珠がつけられています。
その宝珠同士が互いに映し合って、際限がありません。それを観照している状態が究極の悟りなのです。
曼荼羅はあらゆるものすべてに仏性が含まれることの理解と体験を助けるために象徴的に表現されました。
マンダラ(曼荼羅)のマンダはサンスクリット語で「本質」「真実」の意味があり、ラは所有なので曼荼羅は本質を得るという意味になります。
漢訳は輪円具足(りんえんぐそく)と訳され「円」「全体」の意味もあります。
「道場」という悟りをうる場所の意味にもなっています。
熊楠はいかに心と物がまじわって事が起きるのか真実を究めようとしました。
世間の科学者、哲学者のように心と物をバラバラに見ていては本質をつかむことはできません。
「さて物心事の上に理不思議がある。これはちょっと今はいわぬ方よろしかろうと思う。右述のごとく精神疲れおれば十分に言いあらわし得ぬゆえなり。これらの諸不思議は、不思議と称するものの、大いに大日如来の大不思議と異にして、法則だに立たんには、必ず人智にて知りうるものと思考す。」熊楠書簡
熊楠は世界で起きている現象を諸不思議といっています。
南方曼荼羅はたがいにカテゴリーが異なる物不思議、心不思議、事不思議、理不思議どうしがつながり、結びあって多元的な重層構造をなす大日如来の大不思議という全体構造になっています。
粒子が生成消滅を繰り返し「非存在」と「存在」の間をゆらいでいる無の状態から物質宇宙が誕生すると現代物理学が説明しているように熊楠は大日如来の大不思議から「心」と「物」が同時に生まれてくると言っています。
熊楠が語る大日如来とは人間の知性の産物の概念ではなく、「心」と「物」を生み出す力であり宇宙全体を内包してさらにすべての不思議を超えた実在のことだと言っています。
物とは自然科学の対象となる物質世界のことで心は人間の精神の作用です。熊楠は心と物が関係して交わるところに事が生じると言っています。
理不思議はそれらの不思議を超えたところの世界のことです。
諸不思議が一番多く交じわる点を熊楠は萃点(すいてん)と言っています。
『(因果は断えず、大日は常住なり。心に受けたるの早晩より時を生ず。大日に取りては現在あるのみ。過去、未来一切なし。人間の見様と全く反す。空間また然り。)故に、今日の科学、因果が分かるが、縁が分からぬ。この縁を研究するがわれわれの任なり。しかして、縁は因果と因果の錯雑して生ずるものなれば、諸因果総体の一層上の因果を求むるがわれわれの任なり』熊楠書簡
熊楠によると科学は因果をわかっているが縁をわかっていないといいます。
時空を超えた現象は通常の科学では捉えられません。
全ての現象は複雑に関連しあっているので未知の存在は内在する「理不思議」の力によって予測することができるのです。
大日如来の大不思議の説明は
インド哲学のアートマン=ブラフマン、
カバラのアイン・ソフ、
万物の根源である道教の無、
あらゆるものを生み出した神、
新プラトン主義の一者(the One)とよく似ています。
ロンドン時代に自然科学者の徒だった熊楠は那智の大自然に入り物質世界を超えた体験をしています。
そのことを「事物心一切至極のところを見んには、その至極のところに直入するの外なし」と言っています。
熊野の森に住む無数の生き物の姿は無数の大日如来の化身の如来が法を説いている姿でした。
南方曼荼羅は驚きと喜びに満ちていて、宗教と科学が一体となった世界でもあったのです。
全ての事象は、無関係に存在しているようにみえますが目に見えないところでは因果と縁により複雑に絡み合って相互に繋がり、結びついています。
この世にあるすべてのものは 何一つとして無意味なものはなく、それぞれが大切な存在として世界を構成しているのです。
南方熊楠は「世界に不要なものなし」といっています。
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岡部 明美&清水 友邦 ユーチューブ対談 存在の力
https://www.youtube.com/watch?v=7xVsdozkIyk
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人は本当の私(セルフ)と刺激に反応するマインドの私の両方を持っています。
呼吸道はあるがままに観照している本当の自分に気づくワークです。
本当の自分に気がつくと他人の人生ではなく自分の人生を生きるようになります。
次のような方は頭と胸と腹のエネルギーバランスが偏っている可能性があります。
・思考が気になって静かな瞑想が苦手な方
・すぐに空想や妄想にふけってしまい、人の話を聞くのが苦手
・頭で考えてばかりで物事が進まない方
・練習では実力を出せるのに本番になると実力を発揮できない方
・身体感覚が鈍い方
・人の意見に左右されやすい方
・迷ってばかりいて決断できない方
・気が上がりやすい方
・過去や未来のことばかり考えてしまう方