動物福祉のジレンマ1
最終更新:2019年6月6日
日本の動物擁護団体の中で、菜食(ビーガン食)の普及という目標を明確な形で前面に出している団体は、ごく少数に限られる。
他の団体は菜食よりも「人道的」畜産物の普及に力を入れているか、そもそも食に関する主張をあいまいにしているかのどちらかである。団体に属する活動家には脱搾取派(ビーガン)が多くいて、かれらは人々に菜食を勧めたがっているにもかかわらず、当の団体自体は必ずしも積極的に菜食を促してはいない――私がここ数年で複数の動物擁護団体と関わった上での印象はそれだった。
無論、各団体はそれなりの考えにもとづいて穏健な主張を掲げるのであろうし、動物擁護をめぐる日本社会の後進性を思えば、現実路線として、まずは畜産物を食べるのは認めるにしても一定の人道性は確保しよう、といった段階論を唱えたくなる気持ちはよく分かる。
しかし、活動に参加する人々の気持ちはどうなのだろう。
倫理的理由から菜食を実践する人にとっては、人道的であれ何であれ、畜産物を他人に勧めるというのは耐えがたいことなのではないかと察する。なるほど動物擁護団体には菜食でない人々もいるので、もしも団体が菜食の普及に徹するとしたら、かれらは自分の食習慣を棚に上げて他人に菜食を勧めることになるわけだから、後ろめたい気持ちにはなるに違いない。団体としては、脱搾取派の気持ちを汲むか、脱搾取派でない人々の気持ちを汲むか、悩ましいところだと思う。
が、脱搾取派が畜産物を勧める苦痛は、脱搾取派でない人々が菜食を勧める苦痛の比ではないほど大きい。なぜなら、後者は動物食の習慣を(脱したくて)まだ脱し切れていないだけなのに対し、前者は使命感にもとづいて意識的に畜産物を避けようと決心した者だからである。自分は倫理に準じて菜食を選んだにもかかわらず(しかもそれはさして難しいことでもないにかかわらず)、他人に倫理を求める場面では畜産物を勧めなければならないとしたら、そのつらさは計り知れない。
しかもかれらは先述した通り、個人的には菜食を広めたいと思っている(現に活動家の中には、気の合う少人数で集まって独自に菜食を訴える人々もいる)。個人であれば菜食を勧める人々が、団体に属することでその主張をより強く広く発信できるどころか、団体に属したせいでその主張をねじ曲げなくてはならないとしたら(それは自分にも他人にも噓をつく行為であるから)、団体活動への参加に疲れを覚えてしまったとしても無理はない。寄付をする人々にしても、自分のお金が菜食の普及ではなく「人道的」畜産物の普及に使われていると思ったら、はたして支援を継続する気になれるだろうか。
私は日々動物たちの境遇改善に努める団体を、尊敬しこそすれ非難する気はない。しかし団体を率いる者は上のような事情をよく考える必要があるだろう。
動物実験、動物娯楽、動物園・水族館、革・毛皮産業、さらにはペットの生体販売に対してさえ全面反対の主張を掲げられるというのに、史上最大の動物搾取である畜産業に対してのみ部分的改善を求めるだけというのは、どこかおかしなところがないだろうか。