掲示伝道(2月no1)
2022.02.01 00:35
「 努力無効を自覚して初めて 努力無用の真理に触れる 」安田理深師述
私たちは日常、学問をはじめ、芸術、芸能、スポーツ等々、ある目的を目指して努力するを常とします。同様に宗教においても宗教的な「さとり」、「すくい」を求めて自力努力精進して、仏に近づかんとします。しかし、私たちはすぐ理屈が用いて「汚れた雑巾で汚れた処を拭いたところで、汚れは綺麗にならない」如く、「煩悩具足の汚れた身で如何に清浄に成ろうと努力精進しても、それは不可能ではないか」と諦めるのですが、「三帰依文」のなかに「大道を体解して無上意を発(おこ)さん」とありますように、頭ではなく身を以て知る体解を通さなければ、真に救われることはないのでしょう。
親鸞聖人は「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」と述懐されておられます。自力修行を尽くしきり、自力無効を体験されたことによって、絶対他力(如来の本願力)の救いの大道が開かれてくるということではないでしょうか。