俳句入門
https://gendaihaiku.gr.jp/create/guide/ 【俳句入門 対馬康子】より
その1、俳句とは内面の具象である
俳句は誰にでも書けます。それは、すべての人が、すでに人生の喜び、悲しみなどの経験をこころの奥底にためているからです。
俳句を書くとは、自分の外にある神のようなものを信じて、それを描こうとして自然の事物や、人事の出来事を書くことではありません。そのようなものはすべて自分の心の産物です。何かを言いたい、人とわかり合いたい、苦しみを癒いやしたい、というあらゆることの答えは、地球が誕生し、いのちが生まれ、人が存在するようになる長い時の流れの中に、人のこころの構造の中に密かに組み込まれています。
俳句は、すべての人がすでにこころに持っている真実を、俳句の力をかりて具体的に言葉により表出するために日本語がたどりついた独特の短い詩です。
人体じんたい 冷えて東北白い花盛り 金子兜太とうた
死に未来あればこそ死ぬ百日紅さるすべり 宇多うだ喜代子
その2、俳句は俳諧を基本にする
漢文学者白川静しらかわしずかの『字統じとう』によれば、「俳」とは、〈『説文せつもん』に「戯たわむ れるなり」とあり、もと二人相戯あいたわむ れて演技したものであろう。〉と書かれています。
そして、「諧」とは、〈本来は神霊を安んずることを言う語であった。神に対する語であるから、意味のよく知られない不思議な語をいう。漢の東方朔とうほうさく は「口諧辭給こうかいじきゅう」、いわゆる諧語かいごをよくして武帝ぶていの寵ちょうをえた人であるが、俳諧はいかい・諧謔かいぎゃくの意味も、もとは呪語じゅごに関するものであった。〉と記されています。
中島斌雄なかじまたけおが『現代俳句の創造』の中で指摘していますが、俳諧の概念は今から三千年前の司馬遷しばせんの『史記』にあるように、当時の支配者の間をコトバの魔術によって渡り歩いた「俳諧師」に由来します。平安時代には、藤原清輔きよすけが『奥義抄おうぎしょう』の中で、この「火をも水にいひなす」俳諧の技こそ王道であると述べています。
自己の内面の奥底にある複雑で、多様なこころを表すには、俳諧の精神で自分独特の表現に達することが必要です。それは平明、簡潔な散文表現とは異なる韻律いんりつによる表現効果を主たる目的とする定型短表現です。
はらわたの熱きを恃たのみ鳥渡る 宮坂静生しずお
霞む東京船首の巨おおき斧が向く 中村和弘
その3、俳句は短詩型文学である
芭蕉も勉強した禅は、心の奥に存在するとされる真実に到達するために、言葉の通常の意味を「大地山河、廓然粉砕かくねんふんさい」することにより、魂を揺さぶります。そのために考え出された短詩型が公案こうあんです。また、空海が確立した真言密教の『声字実相義しょうじじっそうぎ』(『声字義しょうじぎ』と略す)などに見られるように、ゴーギャンの有名な問いである「我々は何者か」に対する答えを示したりする手法として、古来より「句」が駆使されてきました。
『声字義』とは、「五大に皆響きあり/十界じっかいに言語ごんごを倶ぐす/六塵ろくじん 悉ことごと く文字もんじ なり/法身ほっしん は是実相これじっそう なり」という四句による偈頌げじゅ という短詩型です。世界は何でできているか、という根本問題からはじまり、真言を基本とする東洋言語哲学を打ち立てています。
たった四行の句から成り立つだけです。こころの真実にたどり着くためには、詩という不思議な力を持った短いことばであることが重要です。句によって一気に自分の内面に入ってゆくのが俳である句です。
俳諧の不思議な力を活用して一気に自分の内面を具象化させるのが、俳諧の句である「俳句」です。したがって俳句は短いことがその本質です。
おぼろ夜よのかたまりとしてものおもふ 加藤楸邨しゅうそん
万の翅はね見えて来るなり虫の闇 高野ムツオ
その4、俳句は定型詩である
自分のこころの深層は、未知なる世界です。荘子そうしが描くような鬼神きしんや、超現実の存在が自由に行き来する世界とつながっています。多くの芸術家が、この世界に入るためのあらゆる努力を行いました。リルケやマラルメはその典型といえるでしょう。しかし、彼らはあやうく精神を病む一歩手前まで行ってしまいました。
芸術家が、自分のこころの奥にある真実に安全に到達するために「形式」が存在します。形式は、芸術家が見境なく未知の世界にさ迷いこむことを防ぐための「審美距離」を与えてくれます。
俳句型式は、千年を超える日本の詩人たちの様々な努力の結果到達した奇跡の定型短詩ていけいたんしの形式です。この俳句型式を活用する限りにおいて、あらゆる芸術家の試みは、リルケやマラルメがおちいった危険から守られます。
日本の俳句定型は、日本語の持つ内なる秩序から進化、発展してきました。現在の日本語を基礎とした俳句の五七五の形式のもつ審美距離は万全のものがあります。しかし、社会の変化にともない言語は変わってゆきます。五七五の定型に書かされるのではなく、定型を駆使して新しみを書くことに挑戦してまいりましょう。その意味では定型のいろいろな可能性が開けてゆくことでしょう。
地の底の燃ゆるを思へ去年今年こぞことし 桂 信子
鈴に入る玉こそよけれ春のくれ 三橋みつはし敏雄
その5、季語と切れ字
季語の有無の問題は、審美距離の問題とは関係はありません。ただ自己の内面に存在する真実は宇宙形成の真実とつながっていることが、多くの芸術家、哲学者、宗教家によって指摘されています。
特別の象徴的な言葉を駆使した多くの作品例と芸術的経験から、特定の場所、時間、置かれた心理状況などに応じて、有効に機能する言葉が発見され、それが経験的に収集され、編纂へんさんされてきました。
季語として収集されている言葉以外にも、象徴的役目をする語はあります。そのような象徴語が、すべて同じ効果を持つものではありませんが、初心の頃は、すでに存在する成功例や機能をよく吟味して、積極的に学習し、活用することが必要です。
正岡子規まさおかしきが『俳諧大要はいかいたいよう』の修学しゅうがく第一期において、季語をマスターすべき必修事項としているところです。
また、五七五からなる短い散文さんぶんから韻文いんぶんへと変貌を遂げるために有効な、不思議な語が切れ字です。
前述の『字統』で「や」を引いてみると、「呪医じゅいが、矢で病気を祓はらう時のかけ声である。」との記述があります。この言葉が入ることにより意味の脈絡は断たれ、十七音の「ことば」の空間に異なった役割が与えられ、それらが響き合う重構造がつくりだされます。切れ字には、「や、かな、けり」以外にもいろいろな言葉でこれが可能になります。季語の勉強と並んで切れ字の成功例を学ぶことも大切です。
しんしんと肺碧あおきまで海のたび 篠原鳳作ほうさく
人寰じんかんや虹架かる音響きいる 寺井谷子
夢の世に葱ねぎを作りて寂しさよ 永田耕衣こうい
その6、俳諧自由である
以上の俳句の本質をまもる限りにおいて、それ以外は「俳諧自由はいかいじゆう」の精神で俳句を作りましょう。
審美距離をさらに狭めて、いろいろなスタイルを確立することができますが、制約が多いほどこころの崩壊を防ぐには安全です。一方、不必要に制約を拡大することは、こころの「表面」を具象化ぐしょうかして伝達することは容易になりますが、こころの「内面」を具象化することを困難にします。入門した俳人たちが十年ぐらい経た後に、この問題に直面します。
鉛筆の遺書ならば忘れ易やすからむ 林田紀音夫はやしだきねお
水枕みずまくらガバリと寒い海がある 西東三鬼さいとうさんき
じゃんけんで負けて蛍に生まれたの 池田澄子
その7、非空非実の文学
芭蕉がその俳諧に於いて到達したものは、非空非実ひくうひじつの文学のレベルです。軽みかろみの思想にあらわれているように、自己の内面を見つめ、それを物に託して表現しました。
芭蕉の旅がその境地を高めて、造化ぞうかに随順ずいじゅんするということから、より自己の内面を見つめ、その表現の透明度を高めるという方向に作風が進化して行きました。そして、主観しゅかんと客観きゃっかんという、西洋的な二分論のレベルを超えた両者の融合の世界に到達しました。
現代俳句はこのレベルを前提として、更に深く、広く、世界の変革と進歩に相応し、新しい作品を創出することが期待されています。
鱒ますとなり夜明け身を透く水となり 中島斌雄
雲は秋運命という雲も混じるよ 金子兜太