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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

ウィーン体制8-オーストリア侵入革命敗北

2022.02.02 10:42

英仏露墺普5カ国会議でお墨付きを得て、オーストリア軍がイタリアに侵攻した。新サルディーニャ王カルロ・フェリーチェは、墺軍介入を要請、王も独自に軍を編成し、革命政府の陸軍大臣は徹底抗戦をよびかけたが、1821年4月8日4000人の兵がノヴァーラで戦って全滅し、立憲派は投獄されたり、フランスに亡命した。

またナポリでも、フェルディナンド1世が介入を要請し、5万人の墺軍が侵攻した。革命政府軍は、4万人の志願者をつのり、3月7日、リエーティ・アントロドーコの戦いで敗北、イタリア統一運動での最初の大規模な戦闘となった。しかし革命軍は戦闘力を失い、壊滅した。

革命政府の敗北で、憲法も議会も廃止され、元の王政が復活した。ナポリでは首謀者は公開絞首刑に処せられた。一国で騒乱があると、それに大国がつけこんで、欧州戦争になるのが常だったが、今回は、前もって大国間合意をとっていて、それは防がれた。しかし王家の戦いが民衆戦争に代わっていた。

メッテルニヒは、ウィーン会議からの欧州安定と国の拡張の功績で、オーストリア宰相に任命された。しかし実際イタリア鎮圧での経費は重荷となった。「私の一生は崩れ落ちる建物を何とか支えるようなものだ」と嘆いている。そしてさらにヴァルカン問題が発生する。