ただ神が知る【芍薬 椿】
引っ越しできゃっきゃしていたのも束の間、仕事ができないことでとてもストレスを抱え始めた。なんというか、社会に取り残されているような、自分が何者なのかわからなくなるのだ。主婦という仕事がいかに大変かを思い知らされた気がした。
私はこのフラストレーションを抱えて数日過ごしていた。新しい生活は確かに楽しく、いろいろな家具を揃えるほどになんだか自分で人生をつくっているような気が楽しかった。クリエイティブ、そんなおしゃれな言葉が自分の生活にまで及んでいることがジブリの世界の主人公になれたようなそんな感覚にしていたのかもしれない。
フラストレーションを言語化できる少し前、私はひとつ言葉を頂戴した。というのも、言葉は急に降ってくる。クリスチャンならなんとなくわかることだと思う
「横綱相撲」である。横綱相撲というのは、相手がどんな手を使ってきても受け止めてから勝負をつけるというもので、最上位格の横綱はそれほどの余裕がありつつも勝ってしまうことの裏付けともいえる。
真正面から巨体が向かってきても恐ることなく怯むことなく「さあ来い!」と正々堂々と勝負をすることである。
一時期横綱の品格というものが取り沙汰されたようだが、勝負には何事もルールがある。横綱とは相撲の中の格位なわけで、そのルール内の決まり手に張り手があれば、それもまた正々堂々と受け止めたと私は考えている。
卑怯なことというのは、禁じてを使ったり、それこそ前日に相手の力士のちゃんこに下剤を混ぜておくとかそういうことだと私は思う。
私は何事もいなすことができない。冗談を言われたらそのまま受け取ることもよくあるし、嫌味言われたら無視もできずにきっちり戦ってしまう。いなして勝つこともまた、張り手をして勝つこともまた四十八手の内の決まり手にあるからルール内のことなのだがそれができない。性分だ。
そう思った時に「おや、私はもしや横綱審議委員会だか、日本相撲協会理事会だかが求めている横綱相撲をする人間ではないのだろうか?」と思ったのだ。
私の横綱相撲において今足りないのは仕事である。仕事をしていない日々が続いている。家事をこなすこと、引っ越しの荷解きをしたり調度品を整えたりすることもまた生活上の大事な仕事ではあるものの、私にとって物事に仕える第一順位はやはり作文作業だと感じさせられた。
場所を離れ、状況を離れるとその大切さに気づく。そして大切なものを大切にしていなかったとき、そのツケがやってくる。覆水盆に返らず、である。
恋愛があって、生活があって、仕事もなければ私は幸せではない。
一見わがままな言い方に聴こえるかもしれないが、考えてほしい。三代欲求はすべてあって当然な摂理ではないだろうか。ひとつ残らず満たしたいという欲求を人間は誰しももれなく与えられている。きっと恋愛があって生活があって仕事があることもまた、神様が私たち人間にもれなく与えられたことなのだと時々感じる。
専業主婦が大変なのは社会とのつながりが遮蔽され、時に自分の所属がどこであるかわからなくなりやすいところだ。昨今は共働き全盛の時代、自分だけ「何もしていない」と錯覚に陥りやすい。時代の流行や風潮の一員として生きるというのは同じことをしていれば大変安堵感に満たされる。右ならえという行動は不自由に感じるかもしれないが、その内にあればあらゆるものが包括されて不安が削がれている。
相撲も心技体という。どれかひとつが欠けてもそれは相撲ではないと。
私にとっても恋愛と生活と仕事、どれが欠けても自分の人生ではないように感じている。どれも必要で、どれかひとつが不足すると何かが崩れ去っていくのは三角形を思い出してもらえればわかりやすい。三角形の定理には過不足があると倍数になっていかないことが論証されている。
私の人生が豊かになっていくためには、私が横綱相撲を取るためにはどれも欠けてはならない。フラストレーションの正体は大きく欠けていた仕事面が誘引していたらしい。
正体を見破った私は、横綱相撲と言葉が降ってくる時の感覚を思い出している。
「その時」を私は知っていればこんなにもフラストレーションを抱えなかったのに。
「その」答えが愛唱讃美歌「球根の中には」に模範解答が掲載されていたので歌詞の抜粋を掲載しておく。
寒い冬の中、春は目覚める。
過ぎ去った時が未来を拓く。
おそれは信仰に、死は復活に。
その日、その時は、ただ神が知る。