奇跡のはなし
奇跡については、またゆっくり説明するとして・・・
わたしのはじめての奇跡体験は、ひかる(4歳のむすこ)がやってきたことでした。
2017年の立春のこと。
長ーいトンネルを歩いているような日々が続いていて、その状態に本気でうんざりして(底まで落ちきった瞬間だった)お祈りをしました。
それまでお祈りなんてしたこともなく、自己流だったのですが、いまでもリアルに思い出せるほど、純粋で、とても純度の高い祈りでした。
地球にいるわたしという意識と、もっと高次にある波長がぴたりと一致した感覚があって、そのときの自分が心から願っている、究極のところまで行き着いた感じ。
いわゆる願望(あれが欲しいとか、こうなりたいなど)という自我を超えて、もっと広がりのある視点から、わたしといういのちのはたらきを見つめる。
いまも継続中なので、明かさないほうがいいと思われるので(神とわたしの約束みたいな感じがする)、お祈りの内容については書けないのですが、その祈りが聴き届けられるのであれば、そのためのプロセスや手法は問いません!おまかせします!と祈りました。
これはけっこう重要なポイントで、こうなってああなってという自分なりのストーリーやゴールがあると、それに無関係に思えるサインや出来事を見落としたり避けてしまうし、過去の経験の延長線上にしか行けません。想定内のことを、奇跡とは呼べないでしょう。
わたしの場合、お祈りから3日後に妊娠がわかるという形で答え(=ギフト)がやってきたのですが、想定をはるかに超えたものがやってきて、そう来たかーーー!!!となりました。
でも、まちがいなくこれはお祈りへの答えだという確信がありました。
そして、もしこれが神や宇宙や天(そのときは決まってなかった、笑)の答えなら、きっとすべてがスムーズに起こっていくだろう、進んでいくだろうと思い、わたしはただ、流れにのっていくことにしました。
はじめから、彼と別れて仕事を辞めてシングルマザーになったら、超しあわせになれるよ!って言われても、ぜったい選べないし、そもそもそんなストーリー思いつかないし、おまかせしてよかったなと思います。笑
その後の出産や子育ても、もちろん不安やつらいこともたくさんあったのですが、それ以前のうまくいかなかったことに比べると、感覚がちがうのです。
わたしがやっているという手応えが希薄というか、なにか見えないもののはたらきをつねに感じているというか。
やはりあのお祈りをしてから、ありえない展開や、まるで小説のようなことが日々起こるようになり、あきらかに以前とはちがう世界を生きているといえます。
なぜこのことを書いているかというと、今年の立春にまた、あのときと同じくらいのお祈りをしたからです。
この5年間、あのときほど純度の高いお祈りは1度もできませんでした。
でもまあ、5年に1度くらいがちょうどいいかと。
ここからまた、奇跡を生きる日々が始まっていくでしょう。
5年前はまだ信じきれず、不安・不信・疑いが強かったにもかかわらず、それでもここまでこれたのだから、今度は、安心して流れていこうと思っているところです。
が、これがまた、なかなかむずかしいんだけどね・・・!