下妻城
1. 城のデータ
[所在地] 茨城県下妻市本城町
[築城年] 1455年~1466年
[築城者] 多賀谷氏家
[遺 構] 土塁
[別 称] 多賀谷城
[形 状] 平城
[登城年] 2015年9月12日
(※トップ写真:下妻城・本丸跡と土塁)
2. 城の歴史
下妻城は、康正~寛正年間に多賀谷氏家により築かれた城である。小田原の北条氏による再三の攻撃を撃退し、七代・147年間下妻城を守り、常総地方に君臨した。しかし、関ヶ原の戦いでは、7代・重経は佐竹氏とともに西軍についたため、城は破却となり、多賀谷氏は佐竹氏とともに出羽へと去った。
1606年に徳川頼房が10万石で入るが、1609年に常陸水戸へと移る。その後直轄領、松平忠昌、松平定綱、直轄領と変遷し、1712年に井上政長が新たに1万石を賜り、下妻城西方に陣屋を構え、以後井上氏が代々居城して明治に至る。
3. 城の見どころ
下妻城は、北に大宝沼、西に鬼怒川、東に小貝川に囲まれた天然の要害の地にあった。城は微高地に位置し、堀に沼の水を取り入れて曲輪を島状に独立させていたという。かつては、下妻市街地一帯に及ぶ広大な城域を持ち、総構の外郭も存在した。
しかし、現在では市街地化によりその大部分は失われた。本丸のあった場所が「多賀谷城址公園」となっており、わずかに土塁が残っているにすぎない。土塁の上には、多賀谷氏旧主を慕う家臣子孫が明治時代に建てたという多賀谷氏遺跡碑が立つ。
(下写真:多賀谷城本丸跡)
(下写真:本丸土塁)
また、本丸跡地に戦後五十周年記念碑と、平和塔が堂々と建っている。かなり立派な石碑であり、碑文には明治以来、先の大戦までの詳細な戦史と、地域の戦没者名が記載されていた。城跡は地域の人々の中心施設であり、歴史を振り返るに絶好の遺産であるということを改めて感じさせてくれた。
(下写真:平和塔)
参考図書(週刊日本の城・茨城県の古城址一覧・デアゴスティーニ)によれば、下妻城の遺構として、「多賀谷城址公園」内にある土塁以外にも、近隣の多宝院裏手には土塁が、相原山裏手には土塁、堀が残っているそうなのだが、今回はその場所を詳しく特定することができなかったため、未踏破である。
江戸時代半ば以降に下妻に入った井上氏が本拠としたのが、現在の下妻一高付近にあったという下妻陣屋である。陣屋跡は関東鉄道常総線の下妻駅、線路を挟んで、多賀谷城址公園の西方にあたる。高校敷地の東北角地に、城山稲荷神社が鎮座しているが、この境内の裏手に土塁の一部が現存する。
(下写真:城山稲荷神社裏手の土塁)
4. 城のポイント
①常総地域を支配した多賀谷氏の城 ⇒三方を川、沼に囲まれた天然の要塞
②多賀谷城址公園に残る土塁
③城山稲荷神社の境内に残る土塁⇒下妻陣屋の遺構