拳母城
1. 城のデータ
[所在地] 愛知県豊田市小坂本町
[築城年] 1781年
[築城者] 内藤学文
[遺 構] 石垣、土塁、堀
[別 称] 七州城
[形 状] 平山城
[登城年] 2015年8月14日
(※トップ写真:拳母城・復興隅櫓)
2. 城の歴史
拳母城の前身は鎌倉時代の1308年ころに中條景長の居城として築かれた衣城であったという。関ヶ原の戦い後、三宅康貞によって衣城とは別の地に城が築かれた。この城は城というよりも陣屋程度であったようで、別名は桜城と呼ばれた。
1749年に内藤政苗が2万石で拳母に入り、桜城を改修しようとしたが、矢作川の氾濫により工事が進まなかった。そのため、子の学文は1779年に移転を決意し、桜城より西方の地に新規に築城した。その際、幕府より築城費を与えられている。その後、明治期まで内藤氏が拳母藩を治めることになる。
3. 城の見どころ
拳母城は企業城下町として知られる豊田市の中心地からほど近い小高い丘の上に立地している。三宅康貞が築いた桜城がたびたび洪水被害を受けるため、河岸段丘上に移転して築かれた城郭である。1749年に内藤政苗が拳母に入って以降、1785年に築城工事が終了するまで、約36年もの月日をかけて築かれた、内藤氏にとって念願の城といえる。城からは三河国、尾張国、美濃国、信濃国、遠江国、伊勢国、近江国の七か国を見渡すことができたことから、別名「七州城」とも呼ばれた。
(下写真:拳母城址之碑)
高さ約65mほどの丘陵である童子山に築かれており、現在城跡のほとんどは豊田市美術館の敷地となっている。城の構成は、本丸、二の丸を連郭式に連ね、その周囲に三の丸が巡る縄張であった。本丸に御殿があり、二の丸には大手門が構えられていた。前身の桜城は比較的大きな城域を持っていたようだが、七州城は当時櫓は2基のみ、要所に城門があるだけ、という非常に小規模な城郭であった。築城年代が一国一城令以降であり、しかも、幕府より特別に許可されたものであっただけに、2万石の小大名が大規模な築城はできなかったようである。
明治以降、拳母城は廃城となり、城内の建物は取り壊されてしまったが、一部は城址公園として整備された。公園入口には現存石垣の上に隅櫓(二重櫓)が復興されており、当時の様子を想像させてくれる。この隅櫓は「七州城図」をもとにして、昭和53年に建てられたそうで、見る方向によって姿形がずいぶんと違うため、なかなか味わいがある。登城時、入口の扉が閉まっていたため、内部に入ることができなかった。
(下写真:復興隅櫓)
この隅櫓の石垣は一部積み直されているらしいが、当時の遺構も残っているそうだ。切込みハギで隙間なく積まれた石垣は、実に美しい。
(下写真:復興隅櫓の石垣)
城址公園内には寺部領主・渡辺家の城内にあった書院と茶席・「又日(ゆうじつ)亭」の建物が保存されている。渡辺家10代規綱が又日庵と称していたことから、この名がある。規綱は茶道のみならず、本草学、作陶にも通じ、当時第一級の文化人であったという。書院は8畳で、床、押入が付き、さらに全国的に見ても希少な例である鎧飾り台が設置されているという。しかし、こちらも中に入ることができなかったのが残念だった。
(下写真:又日庵)
4. 城のポイント
①山上から七か国を見渡せた城 ⇒一国一城令後に築かれた城
②復興隅櫓と現存石垣
③城内に保存されている又日亭 ⇒書院兼茶席の建物