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生々流転

2022.11.19 05:00

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/94153 【生々流転】日本画

横山大観 (1868-1958) ヨコヤマ、タイカン 大正12年/1923 墨画・絹本・画巻・1巻

55.3×4070.0 巻末に年記、落款、印章 10回再興院展 竹之台陳列館 1923

生々流転 Metempsychosis 1923(大正12)年 絹本墨画、画巻 55.3×4070cm

sumi on silk, scroll 第10回院展 重要文化財

雲烟漂う山中で葉末に宿った霧のしたたりが渓流となり、水勢を増して千仞の岩壁にしぶきをあげ、山間の人里をぬけ、丘や山をこえていくうちに支流を集めて川となり、水郷を形成する悠々たる大江となって海へそそぎ、逆まく怒涛のうちに雲を呼ぶ。目に映るのはこうした変転きわまりない水の様相である。しかし、それはかたちを借りて現れた、生々流転の相にすぎず、味到すべきは、大観55歳にして達観された、相をこえた想、つまり、その一語にすべてがつくされるような「生々流転」の真理でなくてはならない。全巻に展開する流転の相、すなわち、かたちによって成り立つ実在は、その奥にあるべきかたちなき本質の仮象にすぎないとみられるからである。露、滴、渓流といったそれぞれの仮象の奥に、すべてを通じて動いてやまぬかたちなき水の真相に想い到る時、そこに水と一如とならんとする大観の精神そのものを発見する。展開する風景は、融通無礙、水の随処から、動いてやまぬ精神によって眺められている感がある。実在の仮象界をこえた空の世界に存する識心が、「生々流転」の真理をきわめつつ自然界の流転相をたのしむ、禅定の深妙なる境地を、水里画と絵巻物の原理にのっとって表現しようとしたと見るべきだろう。

大観はそれまでにも、1910年の〈楚水の巻〉以来いくつかの水墨画巻を描いている。それらはいずれも実景に取材したものであったが、その過程で水墨表現の本質と絵巻物形式の原理を会得した画家は、逆にその伝枕的な方式の究理的実現へと駆られて、実在の奥をきわめた自由な精神に映る流転の相をテーマとして着想したのではなかっただろうか。


https://goto-man.com/faq/post-10720/ 【日本画の巨匠、横山大観とその作品の特徴をご紹介します。】より

明治・大正・昭和を駆け抜けた巨匠

日本画の巨匠として知られる横山大観は、明治元年に現在の茨城県である常陸国で、水戸藩士であった酒井捨彦の長男として誕生しました。

学齢時代から絵画に興味を抱いた大観は洋画家の渡辺文三郎に鉛筆画を学び、東京美術学校を受験することに決めた後は、結城正明や、近代日本画の父といわれる狩野芳崖などに教えを受けました。この期間はわずか3カ月程度であったといわれています。

また、当時の大観は鉛筆画を描いていましたが、受験生の多くが有名な師に何年も教わって鉛筆画で受験すると聞くと、試験の直前に鉛筆画から毛筆画への試験の変更を申請して東京美術学校に合格しました。これらのエピソードは大観が短期間で技術を習得することに長けていたこと、画家としての素質が備わっていたことを示唆しています。入学後は岡倉天心、橋本雅邦などに学び、実力をさらに高めていきます。

美術学校卒業後は京都に移り住んで仏画の研究を始めるとともに、京都市立美術工芸学校予備科教員となります。

1896年に、母校・東京美術学校の助教授に就任。しかし2年後に岡倉天心が東京美術学校から排斥されたことを受けて大観も岡倉天心に従って助教授を辞め、日本美術院創設に参加しました。

横山大観の「朦朧体」

横山大観の作品の特徴は、「朦朧体」と呼ばれる線画技法です。

これは、色彩の濃淡によって形態や構図、空気や光を表した技法で、輪郭線をはっきりと描く東洋画の伝統的な線描技法とは大きく異なるものです。

西洋画の画法を取り入れた新たな画風として確立されたこの技法は、当初「明瞭な輪郭をもたない」「勢いに欠ける、曖昧でぼんやりとした画風」と批判され、保守的な日本国内の画壇では受け入れられませんでした。

そのため、大観は日本美術院で西洋画の技法を研究していた菱田春草とともに海外に渡って展覧会を開きます。

西洋の「印象派」的な特徴を持つ大観の作品は欧米で高い評価を得、それを受けて日本国内での評価も次第に高まり、近代日本画の巨匠としての地位を確立しました。

大観が愛した富士山

横山大観の作品というと、1967年に発行された国際観光年記念切手の絵柄となった「富嶽飛翔」が有名ですが、大観は富士山を好んで描いており、数多くの富士山絵を残しています。大観は89歳で亡くなりましたが、数え年で88歳を迎えた年も「霊峰夏不二」を描いており、まさに、「生涯にわたって富士山を描き続けた画家」といえるでしょう。

まとめ

横山大観の作品は、大観が居住していた建物を一部改造して作られた横山大観記念館のほか、東京国立博物館、東京国立近代美術館、足立美術館などで観ることができます。

また、美術館や博物館だけではなく、広島県の厳島神社や、兵庫県の湊川神社にも作品が残されています。機会があればぜひ鑑賞してみてはいかがでしょうか。


https://media.thisisgallery.com/works/yokoyamataikan_01 【生々流転】より

横山大観

作品解説

生生流転(せいせいるてん)は流転する水の一生を描いた作品で、天から降った雨の一滴が、やがて大河となって大海へ注ぎ出て、最後は飛龍となって昇天する壮大な物語です。全長40メートルにもおよぶ絵巻物は、日本一長い画巻としても知られ、国の重要文化財に指定されています。この作品の見どころは、その壮大な物語に終わりがないところにあり、新たな命として繰り返される普遍性が描かれている点で、水墨画のありとあらゆる技法を駆使した大観の人生観そのものを表した大作です。


https://www.sankei.com/article/20180429-FWPTBM3P7RK6HCYZJQVBF3PJ2Q/ 【生誕150年 横山大観展 墨一色が語る壮大な生々流転】より

 近代日本画の大家といえば横山大観を思い出す人は多いだろう。明治から昭和の激動期を生き、人物画から風景画、巻物まで多くの名作を残した巨人でもある。生誕150年と没後60年を記念して、東京国立近代美術館で大規模な回顧展が開かれている。

 今回の目玉作品となっているのが40・7メートルに及び、日本の著名な近代の画巻では最長とされる「生々流転(せいせいるてん)」だ。山間の雲が一粒の滴となり、地に落ちて渓流となり、やがて大河となって、最後には海へと流れ、竜巻となって天に昇る。画面には木こりや漁師が小さく描かれ、山里には人家もある。自然や人間の営みを水の一生にたとえ、確かな水墨技法で光や空気を感じさせる深みのある作品を生み出した。大正時代の円熟味を増した50代半ばの作品。

 「大観、畢生(ひっせい)の大作。壮大なドラマと墨色の美しさは見るものを圧倒する」と同館の鶴見香織主任研究員。

 この作品が東京で一般公開された日に関東大震災が起こったが、損傷を免れた。そんな幸運のエピソードを持つ。

大観は東京美術学校(現・東京芸大)の第1期生として入学。校長だった岡倉天心(1863~1913年)に薫陶を受け、天才といわれた菱田春草(しゅんそう)(1874~1911年)らと新時代にふさわしい絵画の開拓を目指した。明治30年代半ばには、日本画の命ともいえる線をなくし、色彩をぼかして光や空気を表現する朦朧(もうろう)体といわれる描法に取り組んだ。一部で批判を受けたが、「曳船」(後期展示)のような、ぼんやりとした色彩の中に光や空気をも感じさせる自然の幽玄な風景を描き出した。

 明治期、画壇での評価は決して高くはなかったが、時代を重ねるうちに評価を上げ、昭和になると「東の大観、西の栖鳳(せいほう)」ともいわれるほどに。京都画壇の重鎮、竹内栖鳳(1864~1942年)とともに、画壇を代表する画家となった。

 大観の昭和を代表する作品となったのが「或る日の太平洋」だった。画面前面には勢いのある巨大な波が壁のように現れる。荒れ狂う波の中には龍の姿も。稲妻が光り不気味な気配が漂うが、その背後には雪をかぶった晴れやかで神々しい富士山が堂々とそびえる。ダイナミックな構図とともに物語を秘める。

大観は戦時下には報国に奔走。昭和15年には連作「海に因む十題・山に因む十題」を制作。展覧会に出品し、売上金を陸海軍に寄付したことで「大観号」という軍用機が製造された。しかし、敗戦となると、時代は民主主義へと舵(かじ)を切った。「或る日の太平洋」の中の押し寄せる巨大な波は、アメリカなどの戦勝国にたとえられるし、超然と構える富士山は時代にあらがう大観自身の姿ととらえることもできるだろう。大家の複雑な心境を推測することができる。

 展覧会では、約100年ぶりに発見された「白衣観音」やきらびやかで幻想的な大作「夜桜」などがそろい、巨人の芸術の神髄を見ることができる。(渋沢和彦)

【プロフィル】横山大観

 よこやま・たいかん 明治元年、水戸藩士の長男として水戸に生まれた。11年、一家で上京。22年、東京美術学校に入学し、日本画家の橋本雅邦(がほう)らに学んだ。卒業後、同校の助教授を務めていたが31年、同校を辞して日本美術院創設に参加。昭和5年、ローマで開催された日本美術展覧会に「夜桜」などを出品。12年、第1回の文化勲章を受章した。33年、89歳で死去。

特別だった富士

 多くの富士山を描いた横山大観。記念切手に採用され、よく知られるのが最晩年の「霊峰飛鶴(れいほうひかく)」だ。雪化粧の富士山は、背後からめでたさを示す金色の瑞光(ずいこう)を発し、崇高で神々しい。隊列を組んで飛ぶ鶴の飛翔(ひしょう)はなんとも優雅。鶴と富士山という縁起のよい組み合わせだ。大観にとって富士山は特別な存在だったとみられ、中には「心神」という画題をつけた作品も。絶筆も富士だった。

 「霊峰飛鶴」は、東京都台東区にある横山大観記念館の所蔵。大観は明治41年からこの地に住み、没するまで文人らと交流した。木造2階建ての数寄屋風の日本家屋と庭園は、大観の意見を入れてデザインされ、東京大空襲で焼失後、昭和29年にほぼ同じ形で再建された。

 同記念館は、旧宅を使用して51年に開設された。床の間では大観を中心に、親交のあった菱田春草や下村観山らの作品を展示している。多くの名作を生み出した画室は当時のまま残り、大観の息遣いを感じさせてくれる。記念館は月、火、水休館。一般800円。(電)03・3821・1017。

 【ガイド】「生誕150年 横山大観展」は、5月27日まで、東京都千代田区北の丸公園3の1、東京国立近代美術館。月曜休(4月30日は開館)。一般1500円、大学生1100円、高校生600円。問い合わせはハローダイヤル(電)03・5777・8600。