Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

「宇田川源流」【日本万歳!】 日本には「石原慎太郎」という言論人がいたという事実

2022.02.06 22:00

「宇田川源流」【日本万歳!】 日本には「石原慎太郎」という言論人がいたという事実


 月曜日は「日本万歳!」をお届けしている。日本にとって素晴らしいことや日本として誇らしいことを上げ、そして、その内容をこの場で共有し、そして、その中で、日本人のすばらしさを感じながら、我々の中にもその素晴らしい部分が入っているということを認識して、日々の自分たちの行動に自信を持ってもらおうという連載である。

 もちろん、この中には「無理やりヤな解釈」や「私の偏見」ということもあるのかもしれない。しかし、実際に日本人とはこうあるべきということがあり、その日本人ということを考えれば、私は一つの形があると思う。その一つの形において、賛否両論はあるかもしれないが、しかし、何よりもまずはそれを示すということ、そしてその内容を議論するということが非常に大事なのではないか。

 その中では、石原慎太郎という言論人で政治家は稀有な存在であった。

 2月1日に、芥川賞作家、元参議院議員、元運輸大臣(現在のポストで言えば国土交通大臣)、元東京都知事そのほか数多くの経歴や肩書を持つ石原慎太郎氏が膵臓がんでご逝去されました。今日年89歳とのこと。本人は「細胞の寿命である120歳まで生きる」とおっしゃられていたので、予定よりは31年早いご逝去であったと思われます。まずは何よりも、謹んでお悔やみ申し上げます。

 文章的に違和感があると思うが、この部分だけは丁寧語で文章を構成させいただいた。読みにくい部分はお詫び申し上げる。私の故人に対する敬意の表れと思って許していただきたい。

 今回は石原慎太郎氏を私なりに偲んで話をしてみたいと思う。

石原慎太郎氏が死去 89歳 東京都知事や運輸相など歴任

 東京都知事や運輸大臣などを務め、芥川賞作家としても知られる石原慎太郎氏が、1日午前、東京都内の自宅で亡くなりました。89歳でした。

 石原慎太郎氏は、昭和7年に神戸市で生まれ、一橋大学在学中に小説『太陽の季節』で芥川賞を受賞しました。

 「太陽族」という流行語も生まれ一躍、文壇の寵児(ちょうじ)となりました。

 弟は俳優や歌手として活躍した昭和の大スター、石原裕次郎さん。

自民党幹事長を務めた伸晃氏と衆議院議員の宏高氏、俳優で気象予報士の良純氏の父親です。

 石原氏は、執筆活動を続けながら昭和43年の参議院選挙で自民党から初当選し、4年後には衆議院議員に転身して通算9回の当選を果たしました。

 歯に衣着せぬ発言で知られ、環境庁長官や運輸大臣などを務めたほか、自民党の派閥横断的な政策集団、「青嵐会」の主要メンバーとしても注目されました。

 平成元年には、自民党総裁選挙に立候補し、敗れました。

 平成7年に勤続25年の表彰を受けた直後に衆議院議員を辞職しました。

 このころ『「NO」と言える日本』を共同で執筆し、日米関係に対する考え方を鮮明にしたほか、裕次郎さんの生涯をつづった『弟』などを出し、話題となりました。

 その後、平成11年の東京都知事選挙に挑戦した石原氏。

 「石原軍団」も参加する選挙戦を展開して初当選しました。

 在任中、▽有害物質を出すディーゼル車の規制、▽「新銀行東京」の設立、▽大手銀行への外形標準課税の導入など、独自の政策を次々と打ち出したほか、▽東京マラソンの実現を主導し、オリンピック誘致にも取り組みました。

 また、中国に対する強硬姿勢を貫き、沖縄県の尖閣諸島を都が購入する考えを表明するなど国の外交問題にも影響を与えました。

 平成24年10月、4期目の任期途中、突然知事を辞職して新党を結成。

 当時、大阪市長で日本維新の会を率いていた橋下徹氏と手を結び国政に復帰し、2年後に引退しました。

 引退後も石原氏は、執筆や講演などを精力的に行いました。

かつて痛烈に批判していた田中角栄元総理大臣を評価し、その生涯を一人称で記した『天才』は平成28年のベストセラーになりました。

 また、平成27年の春の叙勲では「旭日大綬章」を受章しました。

 家族によりますと、石原氏はすい臓がんを患っていて、執筆活動を続けながら闘病していましたが、1日午前、東京都内の自宅で亡くなったということです。

 89歳でした。

 長男の伸晃氏によりますと、葬儀は家族のみで執り行い、その後、改めて「送る会」などの開催を調整するということです。

 小説 戦後日本社会に大きな影響

 石原慎太郎さんは、作家としても活躍し、作品は、戦後の日本社会に大きな影響を与えてきました。

 石原慎太郎さんは、終戦から10年後の1955年、一橋大学在学中に発表した短編小説「太陽の季節」で作家としてデビューしました。

 湘南の陽光の下でヨット遊びに興じ、女性を求めてナイトクラブに繰り出す若者たちの享楽的な日々を赤裸々に描いたこの作品は、当時の文壇に強烈なインパクトを与え、翌年、当時としては最年少の23歳で芥川賞を受賞して、一躍、脚光を浴びます。

 当時の文学界では、「第三の新人」と呼ばれる作家たちによる内向的な私小説などが多く発表されていましたが、「太陽の季節」はそうした作品とは全く異なる新たな感性を提示するものでした。

 一方で、既存の倫理観や文学的潮流に反抗するかのような作風には強い反感もあり、重鎮の作家や批評家たちが支持と批判に分かれて論争が起きるなど、異例の反響を呼びました。

 「太陽の季節」は、弟の裕次郎さんの俳優デビュー作として映画化もされ、スクリーンの中の若者たちの自由奔放な生き方は同世代の憧れの対象になり、大ヒットを記録します。

 映画の登場人物のファッションをまねたアロハシャツとサングラス姿で、「慎太郎刈り」と呼ばれた髪型の若者が急増し、そうした人々を指す「太陽族」という言葉が流行語になりました。

 石原さんの小説は、その後、「処刑の部屋」や「狂った果実」などが次々と映画化され、戦後の復興を経て活気づく社会を背景に、石原さんは時代の寵児(ちょうじ)となります。

 また、作家の大江健三郎さんや評論家の江藤淳さんら同世代の文化人と「若い日本の会」を結成して、1960年の安保闘争で、日米安全保障条約の改定に反対するなど、政治的な活動にも関わりました。

 石原さんは政治家となったあとも作品の発表を続け、1995年から務めた芥川賞の選考委員は東京都知事になってからも継続し、候補作への辛口な批評で知られました。

 また1996年には裕次郎さんについて書いた『弟』を発表したほか、2016年には田中角栄元総理大臣の生涯を一人称で書いた『天才』がベストセラーになるなど、最晩年まで筆を置くことなく創作を続けていました。

2022年2月1日 13時51分  NHK

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220201/k10013460691000.html

 そもそも、死者を悼むという心自体が、日本人特有である。

 石原慎太郎氏とは「タカ派(保守強硬派)の政治家」のイメージがあるかもしれない。また亡くなった時の報道も一部からはそのようなことが報道され、また社会民主党の議員や政治学者の山口二郎氏などは亡くなった方に対して誹謗中傷をするコメントをSNSに上げて、数多くの反論を受け物議をかもしていた。

 日本人の文化としては、生前どののように自分たちにとって悪いことをしていても、亡くなった相手に対しては、少なくともその喪が明けるまでの間は悪く言わないというのが、文化ではないかと思う。そもそも「卑怯」なことはしないというのが日本人の文化であり美学であり、また武士道の精神であると思いますが、そのようなことは批判をしている人々には通じないのではないか。今回の石原慎太郎氏に対するこれらの誹謗中傷に対する言論に対して、多くの人が「社民党」や「山口二郎」に対して批判のコメントを上げていいる。もちろん、死者に対してそのような物言いはおかしいというようなものが少なくない。そのような言論を見ているだけでも、まだまだ日本人というのは、日本人の文化と心を持った人が少なくないなと思う場面があった。逆に、そうではない人がいることが、日本人の心を持っている人が多くいるということのきっかけになるというのは、なんとなく皮肉な部分があるのかもしれないが、しかし、ある意味で「日本万歳!」の場面ではなかったか。

 一方、私は、2008年当時「テレビで政治的な立場にかかわらず何を言っても大丈夫な人3人」として「石原慎太郎・田中真紀子・ビートたけし」と名前を挙げたことがある。当時外務大臣でその後民主党に移った田中真紀子氏も、またずっと映画監督でありながらテレビタックルなどで好き勝手に言えるビートたけし氏と並び、石原慎太郎氏は「話している内容や表現は過激でありながら、日本人の多くの人がどこか「そうあればいいな」と思っていることを、最も過激に話してくれる人物であると認識されていた。それだけ国民のことをよくわかっておりまた、繊細にその言葉を端的に表現していたのではないか。自身が嫌われえ禹などということは気にせず多くの人のことを考えて話をする。それを見ていれば、同じ方向性の人々は何か元気になるというような感じになったのではないか。

 タブーがあってもあえてタブーを無視した発言ができる。それは、そのタブーがなぜタブー視されているか、そしてタブーの元凶は何か、タブーを破ってしまった場合何が起きるのか、ということをわかっていて、その上、その内容に関して繊細な感覚を使って、世の中を察知しまた、そのタブーを破った相手がどのような行動に出るのかをしっかりと見ながら、すべてに布石を打って、その上で多くの人の前で「演じる」ように過激なことを言う。それが政治家として最も必要な内容であったというように感じるのではないでしょうか。

 今、石原慎太郎氏に代わる言論人や政治家がいるであろうか。

 改めてご冥福をお祈りいたします。